働くという事

 先日、東京ゲームショウに行ってきた。本来こういうイベントには縁のない人間なのだが、たまたま友人がチケットを沢山もらったということで譲ってくれて、それならばと体験してきた感じだ。

 表向きの綺麗な感想を覗けば、実を言うと見て回っている最中の俺の一番の感想は「金が掛かってるし、金が掛かるな」だった。
 最新の技術に沢山の演者、広い会場に大勢のスタッフ。美麗な3Dがグリグリ動き、大画面でVtuberが笑っている。ステージでコスプレをしたがダンサーが踊り、有名プロデューサーが生講演をする。
 そうやって見て回るゲームには確かに魅力的なものもあって、綺麗だったり可愛かったりなイラストが至る所にある。ハイクオリティが溢れている。
 ゲームに情熱をかける学生達の自主製作や、金はかかってなくてもアイディアが評価されたゲームのグランプリも展示されている。

 そのどれもがこれが日本のゲームシーンの最先端なのかと思った。
 しかし、俺自身が興奮をしたかといわれると、然程ではなかった。
「うーん金が有ったらやりたいけどねー」
 の一言で殆どの感動が打ち消された。
 ゲームは高い。
 それは当然で、モデリングもシステムもエンジンもキャラデザもシナリオも宣伝も、ハイクオリティが当たり前だからだ。シンプルにゲーマーが肥えている。金をかけても売れるか不確実だが、少なくとも金をかけずに売れるのは極々限られた作品だけ。そしてかけた分を回収しなくては企業としては回らない。
 フルプライスが6000円の時代から9000円の時代に変わり、ゲーミングPCにつよつよなグラボを載せなきゃ動かすことすら儘ならない。貧乏人にはちょっと厳しい趣味なのだ。ゲームというのは。

 まぁ必ずしもそうとは限らないことも承知してはいる。
 当然低予算のアイディアだけでバカ売れする掘り出し物もあれば、steamのセールで2000円でハイクオリティなゲームを遊べたりもする。スマホで基本プレイ無料で遊べもする。
 だがなんというか、TGSにその色は薄く感じた。
 順当に資本力がアピール力に直結している感じがした。入場口側にスタートアップ、真ん中に大企業、奥の方にコアなインディーズといった配置だったのだろうとは思うが、なんというのだろうか。運営側で明確にクローズアップします!みたいなブースがあるわけではなかった。
 順当に日本の大企業が中心で幅を利かせ、中華製のゲーム会社が資金力で押し切り、それ以外は自身のブースで細々と「何か」を期待している。
 そんな印象を受けた。

 まぁ、正直そんなのはどうでもいいのだ。
 大して下調べもせずにフラッと見て回っただけの素人感覚なので間違っている可能性も多分にある。
 なんにせよ、「俺には金がねぇなぁ」と思ったというのが言いたかったのだ。
 金があるなら色んなゲームをやりたいし、高性能グラボもswitchも欲しいし、VRやsteam deckも試したい。だが当然、無い袖は振れないのだ。そして限られたお金の中で他を切り詰めてまでゲームやりたいという程の情熱は、俺にはなかったというだけの話だ。

 お金と言うのは本来、労せず得られるものではない。日本では生命活動の維持は保証されているが、本来人の命ですら金で買い続けなければならないものだ。命の継続は労働の対価に許されるもの。生活保護で生きてれている俺はむしろ歪んでいるとさえ表現できるだろう。
 なら娯楽と言うのはそれ以上だ。華やかなゲームに憧れはするが、それに触れないことに特に理不尽は感じない。
 だからまぁ、有り体に言えば働いて金が欲しいなと思ったというだけの感想なのだ。

 別に俺は働くことが嫌なわけではない。どちらかと言うと好きよりな位だ。
 ただなんというか、悲しいほどに社会不適合者なのだ。俺は。
 黙って人の指示をこなす能力が無い。余計なことを考えるしケアレスミスも多い。もしかしたら他者の上に立って支持する方なら適性あるのかなとかこっそり夢想したりはするけど、それを実証するための下積みに耐えられない。それに責任に耐えれるメンタルがあるかもあまりに疑わしい。
 一応弁明しておくと、別に俺は責任感が無いわけではない。むしろ人一倍責任感は強い方だと思う。だが明確に責任能力が無い。責任を果たすために自分を制御する能力が欠けている。人一倍責任感が強いくせに、責任能力が無くて罪悪感で潰れて、完全にメンタルが潰れて逃げる。そういう人間だ。そして責任を果たせない人間は労働市場において無価値だ。それだけの話なのだ。
 だからもう、自分を制御せずとも、自ずとやっていることでなんとか食っていくしかないという結論に至った、というのが今の俺だ。
 普通はもう少しなんとなくで生きていくものなのだろう。
 多少のミスは謝って再発防止をして済まして、余計な事には気付かず突っ込まず通り過ぎて、自分のこだわりとかも出来る範囲で残すけど必要な部分は捨てて「これが人生さ」なんて言って。
 そういう生き方をするには賢しすぎた。「かしこい」ではない。「さかしい」だ。余計に頭が回るせいで自分を縛り苦しめ、それを活かせぬまま堕ちていく。
 自分がそういう人間だと気付いた時には、未経験が許される30歳を超え手遅れだ。
 そして未だに自分のこれがただの「甘え」なのではないかと怯え続けている。

 最近たまにこのYouTubeチャンネルを見ている。
 見ていて苦笑しか出てこないくらい、ガチ正論を滑稽にゆっくりでやってるチャンネルだ。
 在り来たりな薄っぺらい正論じゃない。社会に馴染んでいる人にも馴染まない人にも煽っていく正論を展開している。

 見る度に、本当に苦笑しか出てこない。
 まぁぐぅの音も出ない正論だなと同意しつつ、ならば自分はあんな愚か者でないのかと問われれば答えに窮する。
 その正論に我が物顔で頷くことも出来なければ、俺は奴らと違うと笑うことも出来ない。
 愚かさを笑うだけでは意味は無いし、愚かさに寄り添うだけでも未来は無い。
 世の中の大半の人間は愚かで、そして俺自身も例外ではない。
 だが賢しいだけでは行動を起こせず、時には愚か故の過ちであれ踏み出すことも必要となる。
 高すぎる理想と、低すぎる現実。高すぎるプライド、低すぎる自尊心。
 社会通念から逃げ出したところで、他でもない自分自身が己を縛る、自縄自縛。
 いつもいつも、己の愚かさばかりが目に入り、他者の愚かさばかりが目に余る。そして口と頭だけの肉体は、部屋の中から動かぬまま。

 こんな俺の知見が世の中の役に立つと思って活動しようとしているけど、それは多分に願望が含まれている。そうであってくれないと生きていけないという懇願に近いものでしかない。
 まぁ、ある意味では己のプライドを叩き切って、社会様に頭を垂れた方が生きやすいのは十分に理解している。
 でもやっぱり、本当にそれしか生きる道が無いとなるのなら、そこまでして生きる価値を見出せないというのも変わらぬ結論なのだ。

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