人はサイコロと同じで、自らを人生へと投げ込む

 BLACK LAGOONというアニメで有名になった、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルの名言ですね。
 色々と思う所があるので、書きながらまとめて行こうと思います。

 大前提として、俺は引きこもりだ。サイコロを振ることに恐怖しすぎて動けなくなった人間だ。
 また大前提として、俺はTRPGが好きだ。TRPGはある見方をすれば人が行動し物語を作っていく時のプロセスを、端的にシステム処理に落とし込んでルール付けしているゲームだ。
 濃縮還元するように、リアルをシステマチックに落としこんだTRPGを分析することで、リアルの問題も見えてくると思っている。

 その上で、表題の名言については非常に言い得ていると思っている。
 どれだけ情報収集をしていても、どれだけ仲間や賛同を得られていても、どれだけ確からしい先人のメソッドが共有されていても。
 それらによっていくら期待値が高いといっても、結局のところ未来は分からない。不確定だ。当たり前だ。
 でもそんな不確定な未来に向かって、自分自身を投げ出さなければならない。投げ出したなら、決意し行動したなら相応の時間やお金、信用といったコストがかかる。当たり前だ。

 でも、俺はそれが怖いんだ。
 9割の確率で成功すると思った事が全部失敗した経験が染みついているから。
 ちゃんと原因を分析すれば全然9割なんかじゃなくて、失敗して当然だったりするんだけど。
 それでもその時は9割の確率で成功すると思った事が失敗したって認識してて、しかも「なんで出来ひんかったん!?」って詰められて、テンパって言い訳しか出てこなくて、言い訳するなって怒鳴られて、何も言えなくなって、夜通し永遠に責められて。
 で、その内容っていうのが自分を変えるための行動を起こせなかったってもんだから、余計に性質が悪くて。
 結果なんであの時失敗して当然だったのかが後になって分かったとしても、染みついた「確実じゃないなら基本的に失敗する」は洗い落とせなくなった。
 状況としては、

・たたかう   自ら行動する
・まほう    選んでも空欄
・どうぐ    情報を集める
・にげる    逃げる

 こんな選択肢があったとして、状態異常でもないのに「たたかう」を選んでも9割の確率で「しかし体がしびれて動けない」って表示が出る時の心境になってる。
 挑戦して理由もなく結果に裏切られるのが心底嫌になってる。
 魔法みたいな安易な近道は無いから、選択肢自体が無いようなもので。
 状態異常じゃないから改善する特効薬なんて無いし、色々情報を集めようともしてみるけど結局戦えないなら意味が無くて。
 だからずっと逃げ続けている。
 じゃあ逃げ続けて何を期待しているかと言えば、魔法の欄に何か選択肢が出てくる事と、突然クリティカルが出て現実という敵を倒せること。
 でも当然魔法の選択肢なんてなくて、自分が攻撃しない限りクリティカルは起こり得ない。
 ダイスを振らないと、6ゾロは出せない。
 当たり前なんだよ。行動しないと、思いがけない突破口も開けないんだ。

 行動するということをサイコロに例えるのは、やっぱり的を射ている。
 結果に期待して、コストを使って、不確定要素に身を任せることだから。なのにどれだけ万全に見えても不確定要素は0にならない。
 そして不確定要素に恐怖しだしてしまうと、行動を躊躇う様になる。
 加えて失敗した時に無意味になるコストと、強烈に責められた体験はサイコロを振ること自体に恐怖を植え付ける。

 頭では分かっている。
 勿論不確定要素を0にすることは出来ないけど、殆どの場合失敗したのには理由があって、それを改善することで固定値を増やし確定成功にすることも出来るのだと。
 その為にも挑戦して、改善してを繰り返すことこそが人生なのだと。
 そうやって結果の見えない未来であっても、自らを放り込んでその結果を受け入れていくことこそが、自分で責任を持って自分の自由意志で選択し行動する事なのだと。
 サイコロを投げるのと同じように、期待と不安を一緒に持ちながら。それでも「えいや」とばかりに思いを切って、自分の手で投げる必要があるんだと。
 そして一度行動したら最後、「賽は投げられた」とばかりにその結果を受け止めていかないといけないのだと……


 さて、突然だがここまでの文章はお昼に書いていたのだが、続きを書く気力が尽きて寝てしまってたので、ここからは夜に書いている。

 「なんでこんなに行動するのが怖いんだろう。サイコロを不確定要素が怖いからってとこまでは考えてたけど。本当はちゃんと分析すれば失敗する原因があるのに、それも不確定要素だと思って余計に恐怖を膨らませてる感はあるよね。そうなると『失敗を受け止めて、原因を分析し、改善方法を考える』ってプロセス自体がうまく機能しなくなってるのか。確かに失敗したらそれで終わりってイメージが強いし、失敗した時に言い訳が一瞬脳裏をよぎるけど見なかったことにして、例え改善方法を考えようとしてもそれは前向きな気持ちじゃなくて圧迫感と義務感でやってるな……」

 みたいなことを考えているうちに力尽きた感じだ。
 そこから寝て時間が経って、先程とある一つのキーワードが頭に残っていた。
 それは『言い訳』である。

 これは以前自分で思いついたフレーズなのだが、

「それは出来なかった理由であっても、出来なくていい理由ではない」
「でも逆に言えば出来なくていい理由でなくても、出来なかった理由ではある」
「つまり言い訳は必ずしも絶対悪ではなく、改善していくための取っ掛かりとしての側面もある」

 というのがある。(何かの本で読んだだけだったら申し訳ない)
 なんでこれが頭の中で浮かんでいるのか言語化するために、色々紙に書き出していたのだが、出た結論としてはこうなった。

 「なんでやらなかったの!?」と詰められ答えると「言い訳するな」と追い打ちのように詰められる。
 その経験は「自分の中に出て来た言い訳は全部受け入れられず一蹴されるだけである」という図式を生み出し、自分自身でさえ言い訳を直視出来なくなる。
 だがそれによって改善していくための取っ掛かりを探すことも出来なくなり、結果自分が失敗した原因を受けとめて消化することが出来なくなっている。
 その状態で長年生きていくと、原因がはっきりとしないけど失敗したという経験が膨大に積み重なり、不確定要素が本来以上に膨大に見え恐怖する。
 しかも「一回でも失敗する」=「自分の言い訳が認められず全否定される」=「自分の事は理解してもらえないから終わり」という図式も確立されてるから何も行動出来なくなる。

 多分、こんな感じの事を思ったから、インスピレーション的に「言い訳」というフレーズが浮かんだのだと思う。
 そして同時に、

 つまり、端的に言えば「言い訳を直視出来るよう受け止める」ことが解決の糸口なんじゃないか。
 言い訳を直視して、それが出来なくていい理由ではないことだというのは理解した上で、問題点や課題といった、解決すべき原因として再認識することが出来るようになってくれば解決出来るのではないか。
 元来、「恐怖」という感情は大抵「分からない」ことから発生する。そう考えると、この恐怖が「理由は分からないけど失敗する」というビジョンから来るのであるなら、「失敗する理由を明らかにする」というアプローチは確かに間違っていない気がする。
 じゃあ言い訳を直視する具体的な方法って何、となるのだが、一言で言うと以前にも触れていた「メモ術」を流用するのが良さそう。
 グルグルと繰り返し浮かんでは目を逸らし続けているモヤモヤを、言語化、可視化することで吐き出して整理するという意味では、求められていることそのものと思われるから。

 そんなことを考えていて、少しずつ言語化出来て来たのでnoteにも書きました。
 正直まだ自分の中で出て来た答えを言語化することで検算し、咀嚼している途中なので、人に分かり易く説明できるほどまとめられてはいません。
 それにこの思い付きは先程出たばっかりで、まだまだ実践も出来ていないし、この方法が他の人にも通用するのかは未知の領域ではあるんですが、ともかく昼の文章が途中だったのと、そこそこ期待の持てる思い付きなので取り合えず書き留めて公表しとこう、というだけです。

 もう少し検証してみて、自分だけの特殊な解法でなさそうならまた分かり易く纏めなおそうと思いますが、今日はこの辺りでご勘弁ください。

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