壊す努力

 ここ最近、優しさについて考えていた。
 自分の言葉が、論理が力を持ちすぎているのではないか。
 他人の在り方を枉げてしまうのではないか。
 そんなことばかり考えていたけれど、少し答えが見えてきた。
 既に出していた答えに何度目か、行きついた。

 結局のところ、俺のそれはやはり優しさではなかったということだ。
 ただの自己陶酔に、自己顕示欲に過ぎなかったということだ。

「俺の考えた完璧な哲学を知らしめたい。理解して欲しい。尊敬して欲しい。」

 そういった我欲に過ぎなかった、ということだ。

 答えは既に出ている。
 正しいだけの論理に意味は無い。筋が通っているからといって、それだけで尊ばれる類のものではない。
 即ち、俺が幾ら隙が無いと思っていようと、意味が無い。聞き手がそれをそっくり受け入れないのであれば。そしてそんなことはあり得ないのだから。
 故に、俺が心掛けるのは「論理の整然性や合理性」ではなく、「その衝撃を以て『当たり前』の神秘性を壊す」ことだ。
 内容に意味は無い。ただその結果にのみ真摯であればいい。俺の意図が齟齬無く伝わる必要は無いのだ。
 当たり前故に反論の許されない気がする神秘に、論理と言う人智によって形を与えることで、打倒可能な卑近なものへと引き摺り下ろす。そこから先は俺の問題ではない。聞き手の問題だ。

 だから俺が伝えるべきことはたった一言。

「ファイト」

 戦え。闘え。抗え。貫け。
 挫けず思う通りに生きろ。自分の思う通りが何かを考えろ。

 情報の溢れた時代、論理の、正しさの溢れた時代、ただの根性論は理屈に阻まれる。
 ならば理屈を屁理屈で揺らがせて、そこに熱を送り込む。煽る。

 それが俺の役割だ。そう定めよう。

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