「マッチョとへなちょこの違いが生まれる根本原因」

 この記事は、昨日思いついた仮説を分かり易く言語化して、まとめたものです。
 内容は、

「マッチョとへなちょこの違いが生まれる根本原因」

 因みに、ここでのマッチョとへなちょこというのは勿論筋力膂力の話ではなく、ガンガン行動を起こしていく人と、色々杞憂足踏みをしてなかなか行動出来ない人の事を指しています。
 昨日思いついたばかりの説なので一般化出来るようなものなのか、そもそもその説は自分に当て嵌まっているのかさえも確信を持てない段階なのですが、ご容赦ください。
 というか、ぶっちゃけ「この説わりといい線行ってるんじゃね?」って調子に乗ってドヤりたいので書いている感じです。

結論から言おう

 「マッチョとへなちょこの違いが生まれる根本原因」とはなんなのか。
 ずばり、

「言い訳を消化して課題として再認識する習慣がついていない」

 ことじゃないかな、と。
 勿論体力の差というのは大きいでしょう。
 でもこの体力、言い換えて「バイタリティ」というのは(ある程度相関はあるとはいえ)マラソンでの持久力と同義のものでは無いですよね?
 ならバイタリティというのはどうやって鍛えることが出来るのか。
 肉体における筋力と同じように、負荷をかけて消化して増強する。
 そういう意味では先程の説から繋がるんじゃないかな?

「言い訳を消化して、課題として再認識する習慣がついていない」

 この結論に至った論理を説明する前に、一つの格言を紹介させてください。

「人は賽子(サイコロ)と同じで、自らを人生の中へと投げ込む」

 フランスの哲学者、ジャン・P・サルトルの言葉で、日本では「BLACK LAGOON」というアニメでご存知になった方も多いかもしれません。
 個人的にはこの格言は非常に的を射ていると思っています。即ち

・行動の結果には不確定要素が付きまとっている。
・「賽は投げられた」というように、行動したら無かった事には出来ない。
・行動には相応のコスト(時間、お金、信用など)を必要とする。
・それらを踏まえた上で、「えいや」とばかりに勇気を出して自ら飛び込むことが、選択し、行動するという事。
・それを自らの意思で行い続けるからこそ、人は自由と責任のもと、自分の人生を生きる事が出来る。

 そう考えるとキーワードは、

「不確定要素」に「コスト」を支払う「勇気」が必要という点。
 いやまて、と。マッチョな人は思うかもしれません。

「当然不確定要素は無くならないだろうけど、努力次第で減らせるはずだ。
 それに行動した結果出て来た不確定要素は、次から対策すれば不確定要素じゃなくなるだろう」

 ンンン! まさに! 正論!

 でもですね、「へなちょこ」な人は、少なくとも私自身は、それを実体験として会得出来ていないので、理想論としか思えていないんですよ。

「だって結局」
「でも、どうせ」
「……いずれにせよ」

 私が気が付いたら使ってしまう言葉です。
 これらがどういう言葉なのか。それは

「理由を分からないまま、失敗するビジョンを思い浮かべさせる、思考停止の言葉」

 一言で言えば「言い訳」ですよね。
 「言い訳するな、いいからやれ」と。
 でも私は思ったんですよ。
 言い訳を封じられてきたから何も行動出来なくなったんじゃないかな、って。

言い訳をするな

 幼少時、私の家では私の教育は母が一手に担っていました。
 父は基本不干渉で、母が私を叱っていると逃げるように自分の部屋に行ってゲームをしていました。
 一人っ子なのも相まって、母はずっと私だけを見ていました。凝視していました。
 そしてトラウマになるくらい何度も繰り返したやり取り。

「なんで○○せぇへんの!?」
「……××だったから……」
「言い訳しな! あんた前○○するって約束したやんな!?」

 これが繰り返された結果、自分の言い分は絶対に認められないということと、自分の気持ちは理解してもらえないということ、一度失敗したら終わり(徹夜で詰められる)ということが刷り込まれました。
 私は言い訳の多い人間です。出来なかった理由、やらなかった理由を沢山用意することが得意です。
 でも用意したところで受け入れられることは無いので、全部自分の中で無かった事にしていきます。

 言い訳って、基本良くないものですよね。
 なぜなら「出来なかった理由ではあっても、出来なくていい理由にはならない」から。
 でも裏返すと「出来なくていい理由にはならないけど、出来なかった理由ではある」んですよ。
 言い訳を自ら封じて、全て見なかったことにしていくと、言い訳の中に紛れていた「問題点」や「課題」といったものを見つけ出し、自分の中で消化する習慣すらなくなっていくのです。
 そしてそのまま歳を重ねていくと、

「失敗した理由が昇華されず、不確定要素として残ったままの失敗体験が積み重なっていく」

「分析すれば明らかに残ったままの問題点を不確定要素に含んだまま行動し、当然の如く失敗する」

「失敗したらそこで全部終わりだし、改善して再挑戦するなんて次は無い」

「不確定要素が本来以上に膨張して見え、不確定要素自体を猛烈に恐怖する」

 その結果、
「やってみないと分からないのに」「それが出来たらこんなに悩んでないよ」
 というよくあるやり取りが発生するんじゃないでしょうか。

見えてる世界が違うし、当たり前のノウハウを持っていない

 結論に戻って、

「言い訳を消化して、課題として再認識する習慣がついていない」

 言い訳を自分自身でも全否定することで課題として再認識する習慣がついておらず、いつまでも理由が分からないけど失敗したという経験だけが残る。
 すると支払うコストは無かった事にならないというのに、「行動を起こす=膨大な不確定要素にベットする」ということになる。それ故に、そのために必要となる勇気の大きさは指数関数的に膨れ上がっていく。
 人はこのベットするのに必要となる勇気の事を、「自信」と呼ぶ。

 根本的に、不確定要素として見えてる部分の大きさが段違いですし、それを潰して安心するやり方も身についていないのです。
 期待値にリスクが見合っていないと怯えて動けないから、「やればいいのに」が通用しないんですよ。
 だって怯え、恐怖という感情は「未知」から来るものなのだから。
 この逆を行って、失敗した時の課題点を分析し次に活かすことで不確定要素を減らす、その習慣が身についている人は、自然と鍛えられバイタリティーが育っていくんじゃないでしょうか。

今試してる改善方法

 まぁ、偉そうに尤もらしく話していますが、昨日思いついた仮説ですし他人にも、いや自分にさえ当て嵌まっているかは分かりません。
 ただ、そんな仮説を立てた私が、今のところ、どう変えていけば改善出来ると考えているかも少しだけ触れておきます。

 自信を育てるためには成功体験が必要で。
 成功体験を積むにはトライ&エラーが必要で。
 トライ&エラーを繰り返すには、主体的且つ前向きに自分の課題点を見つめることが必要で。
 自分の課題点を見つめるためには、自分の中に浮かんできた言い訳を見て見ぬ振りしないことが必要なのではないか。

 そのためにはマッキンゼーメモを使って、自分の中の悩みと同様に、湧いて出て来た言い訳を紙に書き出して、視認して、整理した上で課題として再認識する訓練が効果的なのではないか。
 そんな風な仮説を立てて、自分自身で実験中ですので、色々結果が出てきたらまた共有していこうと思います。


※マッキンゼーメモについては以下の動画参照


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?