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「Re:ゼロから始める異世界生活」から見る引きこもり

 まず初めに断っておかなければならないのは、俺自身はRe:ゼロから始める異世界生活(以下リゼロ)については精々アニメを一通り見ただけのニワカですし、信者でもないということです。
 その為解釈の間違いもきっとあるでしょうし、全ての視聴者が同じ感想を持つわけでもないと思っています。
 ただ純粋に一視聴者としての感想を、現役のヒキニートである一視聴者としての感想を分析と共に尤もらしく述べただけなので、そこに関しては平にご容赦をお願いいたします。
 また、当記事ではアニメ39話時点までのあらゆるネタバレを含みますので、併せてご注意ください。
 では、長くなるかと思いますがしばしお付き合いください。

はじめに、ざっくりとした感想を

 リゼロに関しては39話まで見た所なんですが、一言で感想を言い表すと「うーん、いい作品なんだけどスバルが見苦しすぎて純粋には好きになれないな」という感じです。
 これは作品がダメだからという訳ではありません。スバルを否定するわけではありません。逆です。

 あまりにも、スバルの悩みや欲求が生々しすぎて、自分を見ているようで、娯楽として消費出来ないから、「純粋に好き」と言えないんです。

 そう、引きこもりニートの一人としてあまりにも近しく感じ、その描写力の高さにおぞけを感じるのです。
 今回は主に、そんな吐きそうになるくらい生々しく、リアルで、見苦しく、共感できる所を中心に、ナツキスバルを通して見る引きこもりの精神性を分析していきます。

好きな人達の前では格好良くありたい

 スバルといえば、何度も何度も精神的に打ちのめされつつも、普段は見栄っ張りで少しイラっとするくらいのお調子者であるイメージがありますよね。
 一方で引きこもりというと、暗い部屋で引きこもった根暗のイメージがあると思います。
 一見すると真逆のように見えるこの普段の顔も、実は結構似てたりするんです。

 もし、これを読んでいる人で、引きこもりになった知人がいる方がいらっしゃるなら、その人が引きこもる前を思い出してみてください。その人は、外では弱みを見せず笑顔を作ってはいませんでしたか?
 勿論皆がそうというわけではありませんが、引きこもりになる人は壊れるまで、弱音を吐かず笑顔でやり過ごそうとする傾向があります。
 これは自己肯定感が低いが故に、「弱い所を見せると嫌われる」「笑顔を見せる事で人に好かれたい」という強迫概念に近い考えを持つからです。
 スバルの場合、特にそれが顕著ではありますが、実際作中でも「弱い所を見せて、嫌いにならないか?」という問いかけを何度もしていますよね。
 引きこもりというと根暗なイメージなのは、大体が心が壊れた後だから。そして、そこから立ち直る事が出来ず止まったままだからなのです。

泣きながら全部ぶちまけたい

 作中でスバルが何度も泣き喚きながら、自身の辛い気持ちを吐き出している場面がありますよね。エミリアに、レムに、エキドナに。
 本当は自身の辛さを全てぶちまけたい、泣いて喚いて感情を吐露して、誰かにそれを聞いて欲しい。よく頑張ったねと言って欲しい。
 これはきっと引きこもりでなくても皆が持っている欲求。でも引きこもりにとっては、その欲求の溜め込み方が桁違いなんです。
 聞いて欲しい。
 でも、悪いのは自分だ。言った所で否定される。少なくとも迷惑がられる。きっと嫌われる。どうせ理解してもらえない。そもそももう普通の話が出来る友達すら少なくて、話せる相手が居ない。

だから何も話せない

 そういった否定される事への恐怖と、嫌われる恐怖によってより一層黙るか、外面を取り繕うかのどちからに偏っていくんです。
 ただ、それをそのまま描写すると「モジモジしててうぜぇ」と不快感が生まれるので、リゼロ内では「話すと聞いた相手が即死する」という明確な理由があります。
 物書きの視点からすると多分「聞いた相手が即死する」という設定は、そういう舞台装置的な役割から生まれたのかなと思いますね。

でも、だからこそ分かってあげたい

 リゼロ2大ヒロインであるレムにしても、エミリアにしても、実は結構自己否定が強い女の子ですよね。
 抱え込んだ辛さを知っているからこそ、誰かに聞いて受け入れて欲しいという願いを共有しているからこそ、同じ思いを抱いている誰かを助けたいという思いを持つ人が多かったりします。
 引きこもり経験者の再就職先の筆頭に、カウンセラーや福祉系の仕事が並んでくる理由もここら辺にあると思います。
 そしてリゼロにおいても11話におけるレムとのシーンや、まだ見てないけど流れ的に多分40話で来るであろうエミリアの過去編等、相手の辛い過去を受け止めてあげるシーンが盛り込まれています。

自分が無力だと知ってる

 引きこもりは普通の人と比べて、無為に過ごしてしまった時間が長いです。そしてその時間の分様々な経験や成長をする機会を逃してきたことを良く知っている。
 だってそれを内省する時間だけは沢山あったのだから。
 それ故にユリウスのように、真っ当な努力によって裏打ちされた実力を持つ人間に強烈な劣等感故の反発を覚えます。イケメンだと猶更ですね!

でも自分が何か出来る人間なんだと信じたい

 ただ、逆に言うと様々な機会を逃した結果、或いは能力の限界より先に心の限界を迎えて挫折した結果、自分の能力的な意味での限界を知らない場合が多いです。
 その結果「やれば出来る」という、思い込みというよりは縋るような願いを持ち続けることになりがちです。その場合、反発を覚える真っ当な努力をしてきた人に「能力不足」と言われると、頭が沸騰し猛反発します。
 だって図星だから。自分でも本当は分かっていて、それを認めてしまえば生きていけなくなるから。

結果、自分の価値を「自分の命」に求める

 自分が何か出来る、無力じゃない人間だと思いたい。でも現実問題能力が無い。
 そんな時、切れる手札って何が残ってると思います?
 そう、自分の命です。
 古今東西様々な物語に自己犠牲の精神が描かれていますが、その実、自己犠牲には二種類あります。

 自分の命をベットして、何かを成し遂げるために死ぬ高尚な自己犠牲と
 それしか価値がないからと命を投げ捨てる歪な自己犠牲と。

 前者は天秤に、「目的」と「自分の全力&命」を載せて計っているのに対し、後者は「自分が生きるメリット」と「今死んで生まれるメリット」を計っているのです。
 勿論全てをこの二つのどちらかに分類できるわけではありませんが、少なくとも38話までのスバルの自己犠牲は間違いなく後者でしょう。
 自己肯定感の低さは自分の命の価値を軽くする。だって、それでしか自分の生きている意味を生み出せないと思っているから。

「俺が自分可愛さでこの方法を失くしたら、俺に何が残るって言うんだよ!」

分かって欲しい、自分を見て欲しい

 そうやって文字通り命を賭けて、何かを成し遂げて。その先で求める物が何か。
 自分の悩みを、怒りを、悲しみを、苦るしみを、痛みを嘆きを憧れを!
  分かって、欲しい。俺を、俺を見てくれ……!!
 誰かの為に助けになりたいという純粋な善意は間違いなくある。
 でもこの欲求は強すぎて、時に独り善がりな暴走を生む。
 あんまりに醜くて、見苦しくて、リアル過ぎて、13話は見るのが辛い。

頑張ってるんだから応援しろよ

 でも、そう簡単に皆自分を見てくれない。
 自分は能力が無くて価値が無くて余裕も無い、無い無い尽くしなんだから当然だ。
 だから少し頑張ってみる。認められるに足る人間になろうと、或いは必要に迫られて頑張ってみる。
 だけどその目の前のハードルが高くて自分一人では乗り越えられない。
 誰かの助けが必要なんだ。だから誰かに頼ろう。
 だって皆言うじゃないか。「困った時には助けを求めろ」って。
 俺はこんなにも困ってるんだ。
 俺はこんなにも無力なんだ。
 俺はこんなにもダメなんだ。
 プライドくらいしか賭ける者はないけど、助けてくれ、力を貸してくれ。
 同情してくれ。

 なんでこんなにも困ってるのに無力なのにお願いしてるのに無下にするんだ! あいつらは冷血漢だ! 人でなしだ! 人の心が無いんだ!

 心に余裕がなくて、人の情けを期待するしか希望が無くて、それが裏切られてしまったら八つ当たりするしかなくて。
 八つ当たりをして、疲れ切って冷えた頭で現実を、やらなきゃいけないことと自分の実力を目の当たりにして絶望する。そして

壊れた振りをする

 ペテルギウスは言いました。
「あなた、何故壊れた振りなどしているのです?」

 それはある種理解出来なくて、理解したくない一言です。
 多くの引きこもりがどの段階に居るのかと言うと、おそらくこの段階だと思われます。
 あの忌々しいペテ公はこう続けました。

「本気で振舞うのであれば、他者の目など意識してはいけない」

 偶に「死にたいとか言ってる奴は当面の間死なない。本当に死ぬ奴は黙って死ぬから」みたいな言葉がありますが、それ程間違っては居ないと思います。
 勿論皆がそうだとは言いませんが、引きこもりというのは確かに、一つのポーズではあるのです。
 動けない、ダメな自分を誰にも見られたくない一方で見つけて救い出して欲しい。
 そう、誰かが助けてくれる事を期待する正気が、どこかに残っている。
 自分を客観視して、ダメだと否定する正気がまだ残っている。
 改めて、皆がそうだとは言いませんし、少なくとも俺自身はこの「絶望の向こう側」を経験していないので断言は出来ませんが。
 本当の意味でぶっ壊れては居ない。
 自分自身が壊れたと、終わったと諦めることで同情を引きたい本人には不都合な真実。

怠惰

 ただ、心のどこかで分かっているんですよ。
 本当は自分は壊れていない。まだ正気が、考える頭が、体が残っている。
 でも自分の心の弱さは前に進むことを許さない。
 ちょっと気合を出せば乗り越えられる事をやらない、そんな自分はなんて怠惰なんだ。
 そして、更に自己否定のループに呑まれていく。
 その「ちょっとの気合」は実際は全然ちょっとじゃないし、根性論でどうにかなる問題じゃないのにね。或いはそう、分かっていてもね。
 更に自己否定のループに呑まれていく。

諦めたくない。死にたくない。

 でも本当は、最後に残る願いは「諦めたくない」「死にたくない」。
 自分が嫌いで、許せなくて、自己否定の渦に全てのエネルギーを浪費させられて。
 無力で、無能で、理想の憧れの自分に手が届かない事を嫌という程思い知らされて。
 「諦めるのは簡単」とか「死ぬのは簡単」とかの一言で流されることに非常に頭にきて。

 でもそんな醜い自分を「知ってるよ」って。
 その上で「あなた自身以上にあなたを知ってる。あなたは出来る子だ」って。
 そう本心から言って、ただの慰めじゃないと信頼できる人から言って欲しくて。
 だって本当は諦めたくない、死にたくない。
 諦めなくていい、死ななくていい。
 そう、全てを知った上で肯定して欲しい。
 頑張る理由を、頑張れる理由を見つけて欲しい。

 そして、ゼロからやり直したい。それが本音なのです。

例え再び立ち上がれたとしても、その根拠は細く、脆いもの

 一度地に落ちた自己肯定感は脆い。
 と、いうより染みついた自己否定の強迫観念はあまりにも強く、立ち上がる理由はそれに比べるとどうしても細く頼りないものになってしまいます。
 スバルの場合は間違いなく、その理由をレムに頼っていて、レムの存在が喰われて隣に居なくなってしまった瞬間に、一発で崩れ落ちてしまいます。
 ただスバルの場合、レムにわずかでも取り戻せる可能性があったことと、エミリアという別の存在が居たおかげでギリギリ、レムの残り香を頼りにもう一度立ち上がることが出来ました。
 いずれにせよ、本当の意味でスバルが自己肯定感を取り戻すには、まだまだ足りないのです。

あなたを、愛して

 結局のところ、長年刷り込み続けてきた自己否定は簡単には薄れません。
 例え頑張る理由と、頑張れる理由を貰えても、常に自分への疑念や不信感が付きまとっています。
 それを乗り越え、健全な精神に近づくには、引きこもり、自分を否定し続けた以上の時間を、自分を否定してきた人達以上に多くの人達から承認してもらえる、そんなゆっくりとした修復が必要になります。
 例え行動や生活が改善しても、そう簡単に自己肯定感は高まらない。
 自分自身を肯定し、愛することは、本当に難しいことだと思います。

次回へ続く

 気付けばなんと5000文字。
 今回はリゼロのアニメを振り返りながら、エグいほどリアルなスバルの気持ちをトレースして、解説していきました。
 勿論原作とアニメの違いも多少なりあるでしょうし、そもそも解釈が間違っている箇所があったかもしれません。
 ただ今回はスバルがどう思ったかの記事ではなく、スバルを通じて現役ヒキニートが何を思ったかの記事ですので、改めてご容赦ください。
 また、途中から自分自身が至っていない段階に進んでいる関係で、分析が甘くなっているかもしれません。
 現時点の俺がどの辺りの段階かは、ご想像にお任せします。

 さて、実はリゼロの記事はこれにて前編で、後編では「リゼロに学ぶ脱引きこもりに必要なイベント」という観点から分析していきたいと考えています。
 こちらも数日中には投稿しますので、乞うご期待!

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