望まぬ結果に意味を見出すのが人間

 最近繰り返し思うことがある。

「望まぬ結果に意味を見出すのが人間」

 これは、機械を対比対象としての言葉だが、やはり人間と言う奇妙な生物の本質であり、俺にとっての人間礼賛の根拠なのだろうと。

 俺は親ガチャという言葉が嫌いだ。社会不適合者という概念を鼻で笑う。大量生産大量消費に物申す。幸せという基準に、待ったを掛ける。
 繰り返し主張していることではあるが、人の一生に優劣は無い。良し悪しを決められるのは自分自身だけであって、他者の人生を評価出来ず己のただ一つのサンプルしか評価出来ないのだから、優劣は無い。幸せという基準も同様だ。
 今の時代は資本主義の基本原理として、沢山の消費が幸せだというのが普遍的に最初に教わることだ。沢山のものを所有すること。沢山のサービスを消費すること。そのために沢山のお金を稼ぐこと。そのために高いスキルや大きな心の余裕を持つこと。そのために悩みの少ない順風満帆な人生を送ること。一般的に語られる幸せとは大体こういうものであって、そこから外れたものは社会不適合者と嘲笑われる。
 そういう前提に則るなら、確かにスタートダッシュで大きな足枷となる毒親というのは、間違いなく親ガチャの大外れと言えるだろう。言えてしまうだろう。
 だが、貧乏な家に生まれようと、クソな親に生まれようと、障害を持って生まれようと、それによって苦しいばかりの人生送らざるを得なくなろうと、だからこそ得られた知見と言うのは必ずある。経験無くして得られない知識や技術があるならば、他者の経験し得ない経験から得た知識や技術には稀少価値がある。
 稀少なだけでその先に何も繋がらないのであれば稀少価値に価値は無い。だがその先に意味を見出すことが出来るのであれば、稀少価値は跳ね上がる。
 それはきっと我が身の不幸を慰める代償行為なんだろうけど、それでも、意味付けするのが人間だ。意味を後付けするのが人間なのだ。なかったはずの因果関係から、その先に因果を紡ぐのが人間なのだ。
 そういう紆余曲折は、少なくとも当面はまだ機械には真似できない領域だ。

 何故なら、機械というのは目的を持って生み出されるものだからだ。設定されるものだからだ。
 望ましいものを示されて初めて、その本分を果たし、動き始める道具だからだ。
 機械というのは一定の「因」から目的の「果」までへの短縮経路を繋ぐものだ。
 AIであろうと同じことだ。いちいち細かく設定せずとも、なんとなく望ましいと思われる「果」を集合知から導き出せるようになっただけの話だ。
 気まぐれに出力された「望ましく無い結果」に意味を見出し、さらにその先の因果を紡ぐところまでは行っていない。もしかすると量子力学がその領域なのかもしれないが。

 人は機械と違って因果を紡ぐ。望まない経験をしようともそれが棄却されず、そこから地続きのまま死ぬまで生きる。意味を見出す。
 機械は望まぬ結果に意味を見出さない。だって機械は環境を整えることで因果を「繋ぐ」ものだ。試行錯誤はあろうとも、望まぬ環境を敢えて採用し整え用いない。棄却される。
 だが人間は違う。人の一生はゲームの様にリビルド出来ないし、環境値の設定は複雑極まり、どうしたって望まぬ経験をする。それが無かったことにはならない。無かったことにはしていけない。
 そしてやがて、その経験に意味を見出す。その先に因果を紡ぐ。時に意味を見出せず、脱落する人も出ては来るけれど。

 そういう風に人間は出来ているのだ。即ち、人ひとりの中であったって、常に一つの目的に終始しないように出来ているのだ。迷うように出来ているのだ。揺らぐように出来ているのだ。
 どうやってか、それは兼ねてから言っている人と言う種の矛盾からだ。
 人だって生物としての本質として、自己生存と種の保存の本能に縛られている。人の最大の力は数だ。生き残るためには数を得なければ、即ち集団の一部とならなければならない。だが一方で種を残すためには集団の中で抜きん出ること、それによってパートナーを獲得せねばならない。
 集団の中で協力することと抜きん出ること、その矛盾に気付くだけの想像力と知性を持つこと。その矛盾こそが迷いと揺らぎを生み、人間らしさを彩る。
 そこで迷いも揺らぎも、一切の躊躇いもなくなってしまったら、それはもはや狂気と呼ばれるものに逸脱する。或いは道具や犬と評される。

 だからやはり結論は、俺に言わせれば在り来たりな幸せというのは、もはや前時代的代物だということだ。
 人が道具とならなければ生存できない時代が、そう遠くない内にやってくる。道具としての人は、人材は、もはや機材に勝てないのだ。
 そして望ましくない結果に意味を見出し、その先に因果を紡いだ人や作品、感情や思想こそが稀少価値を持つようになる。それが俺の見立てである。

 ただまぁ、俺自身はこの持論に確信に近い自信を持っているけど、けれども多分に私情の混じった感情論であることも自覚しているし、警告する義務があるだろう。
 何せこの考えこそ、自分の苦しみ悩んできた知見が社会に取って意味があると意味づける、その最たる論理であるのだから。

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