私は賢く、経験豊富だ

 私は賢く、経験豊富だ。
 並外れては居ないけど、人並み以上には悩んで乗り越えてきた。

 凡その人がそんな風に自身を評価しているのではないかと、ふと思った。
 凡その人、即ち「凡人」。
 自分は人生というものが分かっていて、社会を分かっているという、自負。或いは、思い込み。
 そしてこうも思っているんじゃないだろうか。
 別に頭が良いとは思わないけど、冗談や自虐ネタではバカだとは言おうとも、今聞いた話に対する理解力は普通に人並みであると。

 世の中の会議の半分以上の時間はそういった凡その人が満足するためにあって、理解するのを待つためにあって、宥めすかすためにあるのだろう。
 だからこそ、実際の方針というのは喫煙所で決まるのだろう。凡その人がその他の凡その人に対して「分かってないねー」なんて嘆きながら、自分の思う正しさの通りに進めるために。

 そう、俺自身とてその一人なのだろう。
 多少頭が良いつもりでも、決して非凡という程ではなく、単に半端者なだけなのだ。

 世の中の会議と言うのは、やはり建設的な議論をする場ではないのだろう。
 具体的にどうすべきか、どうすれば害を最小化し利が最大化出来るかを議論する場ではないのだろう。
 会議というのは、参加者全員が納得するための、「自分たちは十二分に議論した」という根拠となる経験を積むための儀式なのだ。
 でも当然、そのための儀式であれどそれだけの時間ではない。
 重要なのは、「誰が何に違和感を感じるか」を探ることなのだろう。注意深く参加者の反応を伺い、自分だけでは気が付かない、見過ごしてしまう違和感を炙り出すための場なのだろう。

 人の一生は無限ではない。期限がある。
 期限内でも自分の人生観を固めるのはざっと30年くらいで、その後は余程気を付けなければそれまでの人生観を固持することに終始して終わる。
 人ひとりがその一生において学べるのはせいぜい30年ほどで、あとはその30年を上塗りして固めていくだけになる。
 それは幾らでも例外のある断言だけれど、きっと自覚していなければ避け得ない断言だ。
 そして人の30年というのは、人と言う複雑怪奇な生物を、社会と言う精妙巧緻なシステムを、それらの力学の全てを把握するにはあまりに短い。
 30年経った後に見える世界が常に自分の常識を保証し続けるのは、己のバイアスが反証を悉く排除するからだ。警鐘を鳴らさず、悉く見なかったことにしていくからだ。門前払いし、違和感を追い出すからだ。
 人が己の主観を通してしか世界を観測出来ない以上、どれだけ自分にとって完璧に論証出来る世界であろうとも、人ひとりの経験では決して全容を識ことは出来ないのだ。

 世の中には理解できないものが沢山ある。それはとても大事なことで、とても重要なことだ。
 理解出来ないものを己の言葉で解釈してしまったらそれまで、己の世界の拡張を止めてしまうこととなる。
 理解できないものを理解できぬまま、そういう世界もあるのだと吸収することで、世界を広げることが出来る。

 それを知らぬ大人を笑うことに意味は無い。
 ただ、己が自身の限界を意識し、意識的に他者の違和感を掬い取れるか、掠め奪って我が物とするか。
 要は、そういう話なのだろう。

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