起こる出来事をどう捉えるか
人生にはいろんなことが起こってくる。思いがけないことや、予感していたこと。
いつかはやってくるだろうことを受け止められないことだって起こる。
お金は大切だけど、それ以外のもので大切なものを守るという気持ちも大切だ。
たとえそれを守れなかったとしても、その気持ちは忘れたくない。
それがもたらしてくれた安堵感、思い出、それはかけがえのないもので、それは誰も奪うことはできない。
もう四半世紀前の話だけれど、とてもショックなことがあった。
私にとって、かけがえのない場所になっていた所を去らねばならなかった。いつの間にか、かけがえのない人たちとなっていた人たちと離れなければならなくなった時、私が思ったことは、
「でも、私にはここで得た経験と思い出がある。それは、誰も奪うことはできない。私がそれを忘れない限り」と。
時に、自分の無力さに心が折れそうになることもある。
一度自分を責めるクセがつくと、何かある毎に自分を責める出来事や人がやってくるもんだ。
だから、自分を責めることはやめること。それを肝に銘じて生きること。
もちろん、他人を責めることもだ。他人を責める人は、その責める矛先が自分じゃないだけのこと。
人間というものは、なかなか「自分に置き換えて考える」が苦手な生き物なのかもしれない。
他人のことはよく観てる(実は浅い洞察)けれど、自分のことはつい棚に上げてしまう。それは、自分の正当性を保つために、ついそうしてしまうのだろう。
無意識のうちに「これでいいのだ」と折り合いをつけているのかもしれないが、深い洞察力を身につけ、起こる出来事や人を観ないとなぁと、私自身は思う。
そして、大切なことは、そうなった気(自分は深い洞察力で観ている)にならないことだ。それは、自分では解ってないだけで、まだまだ観えていないことが多々あるからだ。
これは、ある80代の方の姿勢から学んだことだ。その方は、「自分はまだまだ何も解っていない」と仰った。
その言葉に、ちょっと解った気になっていた自分を振り返り、恥じた。
このようなことに思いを馳せる自分は、自分一人で創り上げたものではない。
これまで育んでくれた両親、世話を焼いてくれた伯父伯母、大切なことを教えて下さったお師匠さん、先生たち、人生の先輩方のお陰だ。
起こってほしくない出来事が目の前まで来た時、どう受け止め、自分を納得させていくか、それは自身の知性、品性、思考力、洞察力にかかってくるんだなぁ、嗚呼。