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人をスペックで判断する自分が嫌で

こんばんは、もんぬです。
今、起業準備中の事業のため、プロコーチになるべく修行中でして。
日々コーチングをする側として励む中(練習コーチングを受けてくださった方、ありがとうございました!)、自分もコーチングを受けたのですが、まぁさすが相手はプロコーチ、私の人生の膿と呼ぶべきか「これは友達減りそうだな」な私の一側面が浮き彫りになってしまったので、記録として残しておきます。
コーチング中のやりとりを書くわけではなく、終わった後の感想として。

誰かのためになるのかわからないまま書きます。
同族の人がもしいたら、その人だけちょっと安心するかもしれないですね。

「人をスペックで仕分けてしまう」

のっけからいきなり「人をスペックで仕分けてしまう自分が嫌いで」とコーチに話した結果、ではまず「仕分けたい私」の言い分を聞いてあげましょうか!という流れになった。
コーチングでは、「仕分けたい私」と「そんなことしちゃダメでしょと諭す私」の両者とも大切にするのだという。

いくらコーチには守秘義務があって口外されないとはいえ、「仕分けたい私」に喋らせるのは多少緊張した。絶対人間の汚い部分が出てくるじゃん。

でもこのコーチにドン引きされたとしても私の人生別に何の影響もないからな!と思い直した。


仕分けたい私の言い分を聞いてわかったことは、「スペック」と言っても私が気にして見てしまう(人を判断する材料にしてしまう)のは、学歴・職歴・フォロワー数そして見た目の4点で、これらは全て私が自分なりに頑張って手に入れてきたと思っているものだった。
どこの生まれかとか、資産や知名度は仕分けの材料にはなっていなかった。そこに対して頑張ったことがないからか、私的にはどうでもいいみたい。
そして、私ごときが頑張って手に入れられる程度のものすら持ってない人とは関わる価値がない・時間の無駄だ、と思ってしまっているみたい。(あぁリア友が減りそう)

関わるなら私の成長につながる人じゃないと。
だって、より良くならなきゃいけない。
頑張らなきゃいけない。
成長し続けなきゃいけない。
でないと「私は生きていていい」と思えない。

そんなことないはずだと頭ではわかっている、というか知識として知っている。
「人間は誰しもそこにいるだけで価値がある」「何もしなくても何もできなくても、存在を許されている」らしいじゃん。
でも全然そんなふうに思えていないんだよねやっぱり。
それがこの度明確になった。

背景にあるもの、その1『母親』

正確なことはわからないが、私がこうなってしまった理由は私の成育環境にある気がした。

教育熱心な母だった。
私は記憶が朧げな幼少期、既に複数の習い事をしていて、そのどれもが「他生徒と比較されることを通して、自分は何かにつけて劣っているのだということを自覚していくツール」になっていた。
母の期待に応えたい気持ちと、うまくできずに母を落胆させていたり惨めな気持ちにさせているのではないかという不安からなのか、中学に上がる頃にはすっかりなんだかとても卑屈な子に仕上がった。

私が人より優れているところなんて一つもなく、そればかりか周りのどんなアホにもできている「友達をつくる」ことすら大の苦手だった。

なんか毎日いろいろやってはいるけど、結局何もできない人。無能、無個性、恥ずかしい存在。
私の自己認識はこうだった。
「人間は誰しもそこにいるだけで価値がある」「何もしなくても何もできなくても、存在を許されている」なんて思えるはずがなかった。

▼習い事によって捻くれた話

親に対しては「人様に自慢できるような立派な娘じゃなくて申し訳ない」と、期待されることがとにかくしんどくなっていたような記憶がある。(だからといって、期待されなくなったらそれはそれでしんどかっただろうが)


もう一種の大人

ちなみに、私が捻れた要因は親だけではなかったと思っている。
私は「先生」という生き物が大嫌いだった。

小学生の時は、真面目に授業を聞いて学級委員も常連で成績表もオール◎の私をなぜ先生はかわいがらないのか。できないことは多いが、少なくとも先生に要求されていることはできているはずだ。かわいがられて当然のはずだ。なんであんな何もしないヘラヘラしたやつが先生にかわいがられるのか。わけがわからなかった。

中高でも、先生が手厚くケアするのは不良の子。理不尽に怒られるのは普段真面目な子。
これまた、わけがわからなかった。

一度、高校生の頃だったか、不良に優しくする先生に向かって「おかしいと思います。彼女らのことは人間扱いしてないってことですか!?」と喰ってかかって超怒られたことがある。
完全に頭に血がのぼった大人に怒られるという体験はなかなか鮮烈だった。
言葉は覚えていないが、「残念です!!!」的なことを言い捨てられた気がする。
「先生がこれだけ怒るんだから、私は悪いことをしたに違いない」と思う一方で、実際自分がなんで怒られているのかわからないままだった。

きっと『生徒一人ひとりに合わせた教育』的なものがあったのかもしれないが、同じく生徒である私からしたらそんなこと知ったこっちゃない。
ただただ不公平だと、理不尽だと感じていた。

日常的に接する大人が親と先生しかいなかったためか、大人不信だったと思う。
大人って嫌いだし楽しくなさそうだし、なのにこれから自分も大人になっていくのだと思うと絶望しかなく、さっさと死んでしまいたくもなった。自殺未遂も何度かしたことがある。

どれだけ自己否定を繰り返したかもはやわからないが、子どもの頃に「生きていて楽しい」と思えた夜はあったんだろうかと思ってしまうほど。少なくとも覚えている範囲ではそんな夜はなかった。

両目を瞑って走る

でも努力せずにはいられなかったんだろう。自分の価値を証明したくて。両目を瞑って泣きながら夜道を爆走するように、努力の方向性が正しいかなんて関係なくて、とにかくがむしゃらだった。
必死に生きていた。

そんな子ども時代だったが、目を瞑って走り抜けた結果、気がつけばまぁそこそこの学歴と、わりと自慢できる職歴、ちょっと驚かれるフォロワー数、悪くはない見た目を手にしていた。

(たまに仕事仲間や友達に「そのエネルギーはどこから湧いてくるのか」と敬意混じりに聞かれることがあるが、自分の存在価値を自分で「ある」と思えない瞬間にあのエンジンがかかる自覚がある。決して褒められた原動力じゃないよね)


スペック判断癖を抱いてしゃがむ

早い話が、私にとって重要なスペック=学歴・職歴・見た目(フォロワー数はこの中では弱いので一旦除外)を大事にしないということは、あれだけ苦しかった子ども時代の自分を、目を瞑りながら泣きながら走ったあの努力を、「価値のないもの」と認定するに等しいのだろう。

まぁそれはちょっと気の毒な気もする。

でも、スペックで人を仕分けることは短絡的すぎるし浅はかな行為だという理屈もわかる。
人々がそれぞれどのようにそのスペックを獲得してきたかにはあまりに幅があるし、その3つのスペックだけではその人の何も知ることができないということも経験上そろそろいい加減わかってきている。
そんなもので推し量れるほど人はシンプルにできていない。
(私だってそう。スペックだけ見たらキラキラ系に思われることもあるが、その実こんなに屈折しているわけで)

また「成長し続けられない人には価値がない」マインドだと、自分自身も苦しいまま一生を終えることになる。それもわかっている。


まぁ、もういいよね

コーチングの終わりには、『スペックは大事である』を抱えてしゃがみ込む子どもの私をよしよしするような想像をし、「頑張ってきたことを否定するつもりはないし、二度とスペックで人を仕分けちゃダメなわけじゃないよ。これから起業もするんだし、必要な時だけ仕分けようね。その時にはもっと違う軸で仕分けをしないといけないかもしれないね」と慰めて終わった。

「もういいんじゃない?」とも声をかけた。

スペック判断癖はすぐには変わらないだろうが、こういう背景があってこういう考え方をするようになってしまったのだなぁ、とつまらん映画を眺めるように自分の歴史を客観視し、くだらないなぁと改めて感じ、手放してもいいよねぇこんなものはね、と少しでも思えたことは大きな進歩だと感じている。



私もこういう、気づきをもたらせるコーチングができるようになりたいなぁ。

終わり(毎度のことながら文末が雑)


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