証言①また、どこかで原発事故が起きたら20ミリ基準が適応される。そうさせたくないから裁判をやったんだ

原告副団長 藤原保正さん(75)取材日:2018年12月9日

 藤原さんは南相馬市の生まれ。発災当時は、市内に工場を持つ藤倉ゴム工業(現・藤倉コンポジット)に勤め製造部門で管理職として働いていた。当時は、妻・息子夫婦、小学校1年生と、3歳の孫、91歳になる義父と6人家族。市内の大町病院には、83歳の義母がリハビリ入院中だった。
 原発事故によって避難を余儀なくされたことから、事故から半年の間に義父母を亡くされた。いつもは明るく元気で原告団のムードメーカーである藤原さんが、ご両親の最期の様子を話されるときには、感極まって涙をこぼされていたのが印象的だった。

 インタビュー中、藤原さんは何度も、「あんなに辛い思いを、もう誰にも味わわせたくない」と繰り返した。20ミリシーベルト基準を撤回させたいという強い意志の裏には、そんな悔しさがあるのだろう。(和田)

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■ テレビも付かねぇし、市からの連絡もねぇし、原発事故が起きたなんて知らなかった
                   
 大きな揺れが起きたときは会社にいた。金型とかいろいろ崩れてきて、もうどうしようもないということで、自宅に戻って待機していたんだ。

 原発が最初に爆発したのは、たしか3月12日だったべか。
 12日の夜は、ふだんは静かなうちの前の道路を、ひっ切りなしにクルマが通るんで、なんでだべなぁと思っていたんだよ。
 浜通りから逃げてくる人たちが、うち前の通りを抜けて、川俣町から福島市方面に逃げる途中だったんだな。
 それはあとから知ったことで、あのときは停電でテレビも付かねぇし、市からの連絡もねぇし、そんなことはぜんぜん知らなかったんだ。
 その日の夜遅くに、うちにも浪江町に住む甥っ子や姪っ子が避難してきて、それでようやく原発が爆発したとわかった。

■おじいさんが、うちに帰っぺ、帰っぺ、と繰り返すんだ

 翌日には、息子夫婦と孫は、福島市に避難させた。でも、俺やおっかあ(妻)は、すぐには動けねぇ。うちには、当時91歳になるおじいさん(義父)がいたし、近くの大町病院にはおばあさん(義母)が入院していた。
 それに、避難してきた甥っ子や姪っ子もいたからな。
 
 3月18日だったか、甥っ子や姪っ子が福島市に避難したのを機に、俺も急きょ、おっかあと、おじいさんを連れて軽トラックで福島市に向かったんだ。
 福島市では、息子夫婦が先に避難していた「あづま総合体育館」に避難したんだけども、人はいっぱい。おじいさんはトイレが近いから、なるべく体育館の入り口近くに場所を確保してもらったけど、それでもトイレに立つのが大変でね。結局、おむつをすることになって。しょっちゅう交換しなくちゃなんない。でも、避難所は、ダンボールで場所を区切っているだけだから、プライバシーもなにもないわけだ。

 それで次の日に、県の職員の研修所を避難所に開放するという話があったから、俺とおっかあは、おじいさんを連れて、そっちに移動させてもらったんだ。そこは個室になっていて、ベッドもあった。

 環境はずいぶんよくなったけど、そこへ移ってもおじいさんの具合はよくならなかった。足腰が弱って、頭もボケてきて。避難するときは、自分で杖をついて軽トラに乗り込んだのに、歩くこともできなくなった。
 やっぱり高齢者は、環境が変わると3日で弱ってしまう。おじいさんはずっと、「うちに、帰っぺ、帰っぺ」と繰り返していた。 

 おじいさんも、おばあさんも、どんどん弱っていった

 それから間もなくして、今度は、おばあさんが入院していた大町病院から連絡があって、「迎えに来てほしい」と言うわけ。
 おばあさんは、震災前に神経の手術をしてリハビリ中でね。
まだ一人で食事もできない状態だったのに、弁当だけ配られて放置されている、と。食べさせてくれる人がいないんだ。看護師も介護士も、逃げちゃっていないから、と。
 でも、迎えに来てほしいと言われても、ガソリンもない。

 結局、大町病院は、入院患者をあちこちの受入れ可能な病院に転院させたんだ。うちのおばあさんは、群馬県の病院に運ばれた。
 俺も、合間を見つけてなんとか会いに行ったら、震災前はリハビリの効果でずいぶん良くなっていたおばあさんが、「歩けなくなった」と言うんだ。頭もボケてきていた。
 結局、おばあさんも、おじいさんと同じように急速に弱ったんだ。

 おじいさんは、避難所で点滴をしてもらっていたんだけども、4月20日ごろになって「もう、これ以上避難所に置いておくともたない」と、往診してもらっていた医師から言われてね。
 それで、なんとか入院できる病院を探してもらって、福島市内の個人病院に5月から入院させてもらったんだ。

 それでも、どんどん悪くなった。
モノが食べられなくなって高カロリーの点滴だけになった。

■もう、誰にもあんな思いはさせたくねぇ

 俺は、5月1日から会社が再開したから、後ろ髪をひかれながらも、ひとりで南相馬の自宅に戻った。
 うちのおっかあは福島市の避難所に残って、群馬を行ったりきたりしながら祖父母の看病をしていた。

 結局、おじいさんは、2011年7月21日に病院で亡くなった。91歳だった。
震災前は、普通に生活できていたんだ。テレビ見て、食事して、好物が出てくると「これ、うまい」なんて言って食欲もあったからね。

 おじいさんが亡くなったあと、空いたベッドに群馬からおばあさんを連れてきて入院させてもらった。その頃には、「避難所から出られる人は、なるべく早く出てほしい」と福島市から言われていたので、福島市内にアパートを借りた。
 おっかあは、そこに娘と孫ふたりと3人で暮らしながら、入院しているおばあさんの看病に通っていたんだ。

 俺も、南相馬の自宅と福島を行ったり来たりした。

でも、おばあさんの容態が回復することはなかった。
おばあさんは、その年の12月28日に亡くなった。83歳だった。 

 おじいさんも、おばあさんも、南相馬に連れて帰って葬儀をしたよ。
原発事故がなかったら、ふたりとも、もっと長生きしていただろうな。

 半年のうちに、ふたりも親をなくしたわけだ。あのときは辛かったぞ……。もう誰にも、あんな思いはさせたくねぇ。

■0.1の差で地点に指定されなかったんだ

 2012年からは、おっかあも南相馬の自宅に戻って2人で生活するようになった。
 放射能のことを気にし始めたのは、このあたりが特定避難勧奨地点に指定されるかもしれないということで、測定が始まった2011年6月頃からだ。

 うちに東電が測定に来たのも6月くらいだったかな。
俺はそのとき留守だったけど、玄関先と庭先、2か所測っていった。測定結果が送られて来たのを見たら、毎時3.1マイクロシーベルトと書いてあった。
 毎時3.2マイクロシーベルト以上なら、年間20㍉シーベルトを超えるから特定避難勧奨地点に指定される。でも、俺のところは3.1だ。

 息子が、市が主催する説明会に出かけて行って質問したら、「測定器は誤差もありますが、毎時3.1シーベルトなら特定避難勧奨地点に指定されません」と、市の職員にその場で言われたって。
 息子は、プンプン腹を立てながら帰ってきたよ。
 
 その当時、俺はまだ、放射能が人体にどんな影響を与えるのか知らなかったから、あまり腹も立たなかったんだけども、「0.1の差ってなんだよ」と、理不尽な気持ちにはなったな。

■しかも、でたらめな測り方で決まっちまった

 あきらかに決定の仕方がおかしいとわかったのは、ひとつ10万円ほどする放射能測定器を部落でふたつ買って、それであちこち測定しはじめてからだ。11年の8月くらいだったかな。
 測ると、いきなり高いのよ。毎時3.5マイクロシーベルトだとか、4〜5マイクロシーベルトなんてところも、いたるところにあって。

 そのうち、「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」の小澤洋一くんとも交流が始まって、いろいろ勉強するようになった。
 それで、そもそも、特定避難勧奨地点を決定するときの測定方法自体がおかしい、ということがわかってきたんだ。
 
 本来は、測定する前に、測定器を安定させるために30秒は待たないといけないのに、すぐに測りはじめる。玄関を測るときでも、放射能が高い家の外側に測定器の先を向けずに、家の中に先を向けて、わざと低くなるように測るとかね。そんなでたらめな測り方で、特定避難勧奨地点が決まっちまったんだ。
 実際に、小澤くんとも、あちこち測定に行ったよ。大原行政区、片倉行政区、富岡町や浪江町、会津にまで行った。それでわかってきたのは、測定方法や、測定する向きによって、ずいぶん数値がちがうということだった。
 局所的に、非常に高いホットスポットがあるというのも、自分で測定してみて始めてわかった。

■住民説明会の前に、NHKニュースで〝解除〟を知った

 指定の方法もでたらめなら、解除の方法もでたらめだった。南相馬の特定避難勧奨地点が解除されたのは、2014年12月28日。
その前に、同じ年の5月、7月、10月にも解除の話が出ていたんだ。
 10月のときは、高木経済副大臣(当時)が南相馬に来たから、小澤くんらと「地域を見てみろ。こんなに高いところがあるんだ」と案内もした。

 にもかかわらず、国は12月21日に解除について話し合う住民説明会を開くと言い出した。それも、説明会に参加できるのは、特定避難勧奨地点に指定された世帯だけ。
 なんとか交渉して区長は全員参加できるようにしてもらったけど、とんでもないことが起こった。
 説明会が開かれる予定の12月21日、朝6時のNHKニュースで「南相馬の特定避難勧奨地点は12月28日に解除されることになりました」と流れたんだ。
 これから説明会が開かれるのに、だよ。
 こんなバカな話があるか!

 結局、住民の同意もないまま、強引に12月28日に解除が決まったんだ。
腹が立って、腹が立って、俺はもう説明会にも行かなかった。

■原発作業員以上に高い被ばくを強いられている

 ICRP(国際放射線防護委員会)は、被ばく線量を決める際の目安として、原発事故からの復旧期においては、「年間1ミリ〜20ミリシーベルトの間で、できるだけ低い値を選びなさい」と言っている。

 それなのに、日本政府は最大値の20ミリを選択したわけだ。
原発作業員でも、年間5ミリシーベルト被ばくして白血病になったら労災が認められるんだべ。
 年間20ミリシーベルトっていうのは、それほど大きな数値なんだ。
なして、一般住民の我々が、なんの補償もなく年間20ミリシーベルトの被ばくを受忍しなくちゃなんねぇのか、って思うんだよ。
 こんな話はおかしいでしょう。だって、原発事故前は、年間1ミリシーベルトも被ばくしなかったんだから。
 事故が起きたからって、国が勝手にその基準を上げるなんて。こんないい加減なことがあるか、って。
 
■ 残された人生、これにかけるしかねぇべな

 尿検査をすると、内部被ばくしてるのがよくわかるんだ。やっぱり、尿にセシウムが出るからね。
 おかげさまで、いまは元気だけどもな。国に基準を下げさせるまでは、なんとか元気で闘わんとな。
 なんとしても、ICRPも推奨してないようなとんでもない値を少しでも下げさせたい。そうじゃないと、またどこかで原発事故が起きたら、この20ミリ基準が適応されるわけだから。
 それをさせたくないから、いまのうちに国に見直しをさせるべきだという思いでこの裁判をやってきた。
 長い闘いになるだろうと思う。水俣にしろ、広島・長崎の原爆症認定訴訟にしろ、長い年月かかってやっと認められてきてるわけだから。
 もう俺は、ある程度、歳もとっているし、被ばくもしているし、残された人生、これにかけるしかねぇべな。


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