見出し画像

基本的人権と日本の近代─シェイクスピアの混乱から星野源の「ばらばら」へ─(1)

0. はじめに

 このテキストは、水谷八也と清田隆之が早稲田大学で開催している勉強会「見当識と素材を取り戻すための自主ゼミ」で学んできたことをベースに、水谷が執筆を、清田が編集を担当してまとめたものです。見当識とは「自分が立っている現在地を把握する能力」のことですが、日本社会はこれを失った状態である“失見当識”に陥っているのではないかという問題意識のもと、様々な文献やドキュメンタリー作品を参考にしながら「日本の近代」について学んできました。

 その根幹となる民主主義と基本的人権の問題について、成り立ちを歴史から振り返り、人類がそれらをどう獲得してきたかを確認した上で、「大日本帝国憲法」と「日本国憲法」という2つの憲法を比較しながら日本の近代についてまとめたのがこのテキストです。

 私たちは今どこに立っているのか。そして私たちはこの先どこへ向かっていくのか。「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」である基本的人権を手放すことになるかもしれない危機的状況の今、このテキストが見当識を取り戻すための素材となることを願ってやみません。

◇全体のもくじ◇
※今回アップするのは【第一部】で、【第二部】と【第三部】は順次公開予定です。

基本的人権と日本の近代

─シェイクスピアの混乱から星野源の「ばらばら」へ─

【第一部】
1. 幻の『あたらしい憲法のはなし2020』のために
2. 2015年9月19日に起きたふたつの出来事
3. 権利を捨てた5400万人の有権者
4.「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」とは何か
5. 名誉革命からフランス革命までの100年間
6. 神と人間の関係を変えた「コペルニクス的転回」
7.「このままでいいのか、いけないのかそれが問題だ」
8. そして人々は「ばらばら」になった
9. 人類が迎えた2度目の地殻大変動
10. 明治維新は「日本の近代化」ではなかった!?

【第二部】
11. 大日本帝国憲法とMeiji Restoration
12. 教育勅語の詩的な神秘性
13.「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」
14. 戦陣訓──捕虜になるくらいなら「死」を選べ
15. 憲法は国家のオペレーション・システム(OS)
16. ポツダム宣言と敗戦

【第三部】
17. 憲法研究会と憲法問題調査委員会
18. 民間団体から生まれた民主的な憲法草案
19.「人間宣言」と逆行する憲法問題調査委員会の草案
20. 日本国憲法ははたして「押しつけ」だったのか?
21.「個人」が消し去られた世界
22. 見当識を失い、虚構の世界に生きる指導者たち
23. 星野源が肯定する「ばらばら」の個人
24. 基本的人権は、侵すことのできない永久の権利

1. 幻の『あたらしい憲法のはなし2020』のために

 2020年度の東京演劇大学連盟(演大連)の共同制作の作品は柴幸男の『あたらしい憲法のはなし』になりました。柴幸男の『あたらしい憲法のはなし』は2015年にパルテノン多摩で上演されましたが、この『あたらしい憲法のはなし』というタイトルは、敗戦後の1947年8月に文部省が中学1年生の社会科の教科書として発行した本のタイトルから取ったものです。この『あたらしい憲法のはなし』という教科書は、4年ほどの短い期間しか使われませんでしたが、そこには絶望的な敗戦から立ち上がり、新しい憲法を土台に、新しい国を作っていこうとする「熱」が、今読んでも生き生きと伝わってきます。このタイトルにある「あたらしい憲法」とは、2020年の今も生きている現行の「日本国憲法」のことです。

 演大連の『あたらしい憲法のはなし』の準備は着々と進められてきました。私も今年の当番校である多摩美の加納豊美先生から稽古に入る前の事前講座として憲法のことをしゃべってほしいと依頼されていました。1回では不十分だと思ったので、私の勤務校で桃山商事の清田代表とやっている「見当識と素材を取り戻すための自主ゼミ」とも連携して、憲法のことを学んでいこうと計画していました。

 しかし現在も猛威をふるい続けているコロナ禍のため、2020年度の『あたらしい憲法のはなし』は中止となってしまいました。とても残念ですが、現在の状況を考えると、中止は賢明な判断であると思います。と同時に、現在の日本の様々な惨状と政府の動きを見るにつけ、今年度の演大連の企画が本当に時宜にかなったものだという思いが、日を追うごとに強くなってきました。

 そこで事前講座や自主ゼミでしゃべるつもりで準備してきたことをまとめて書いておくことにしました。柴幸男の『あたらしい憲法のはなし』をきっかけに、73年前に書かれた教科書『あたらしい憲法のはなし』という原点に立ち戻って、私たちの国のことを考えることは、こんな時期だからこそ必要なのだと思います。柴幸男が作った『あたらしい憲法のはなし』からゆっくりと始めていきたいと思います。(教科書『あたらしい憲法のはなし』は青空文庫で、また柴幸男の『あたらしい憲法のはなし』は劇団ままごとのホームページ内の【戯曲公開プロジェクト】で読むことができます。)

2. 2015年9月19日に起きたふたつの出来事

 柴幸男の『あたらしい憲法のはなし』がパルテノン多摩の水上ステージで上演されたのは、2015年9月。初日は19日で、夕方5時半開演でした。この2015年9月19日は「あたらしい憲法」である日本国憲法にとって重要な意味を持つ日になってしまいました。この日、19日の午前2時過ぎ、参議院本会議で「安全保障関連法案」が与党などの賛成多数で成立してしまったからです。

 この法案は、衆議院の憲法審査会で与野党が推薦した3人の憲法学者が、3人とも口をそろえて「憲法9条に違反する」と明言したものです。当時の新聞などを参考にしてもらいたいですが、この安保法案は集団的自衛権の行使を可能にするものでした。この法案成立により、日本が直接攻撃されない場合でも武力行使が可能になってしまいました。

 もともと現行憲法の中で自衛隊が武力を持っていること自体が矛盾ではあるのですが、だからこそその行使に歯止めをかけていた憲法9条の存在が大きかったし、その9条の存在のおかげで、日本は戦争をできない状態になっていました。これは矛盾をはらみながらも、憲法により国の力が縛られていた、という意味では健全な状態だったと言っていいでしょう。しかし、その状態が2015年9月19日の未明に与党などの数の力で破壊されたのです。

 そこに至るまでの参議院特別委員会での絵に描いたような暴力的な強行採決は、「あたらしい憲法」であった日本国憲法が、無残にも踏みにじられていく過程でした。YouTubeなどにも映像として(※)残っているので、若い方たちは、是非ご覧になってください。「破壊」行為をはっきりと見ることができます。※映像は5:16くらいから

画像2

2015年9月17日の参院特別委員会の強行採決

 このように専門家の眼からも明らかな「憲法違反」であるこの法案が暴力的に国会を通過してしまったその日の夕方に、その憲法が生まれたことを喜び、これまでの大日本帝国憲法とは大きく異なるその新憲法を正面から理解しようとする意志に満ち溢れた教科書のタイトルをそのまま題名とした芝居が上演されたのです。憲法が踏みにじられたその日の夕方に、68年前の原点に立ち返って憲法を見つめ直し、考えてみようという市民劇が上演されたこの偶然には、歴史的な意味があるように思います。その日、その夢のような淡い市民劇を見ながら、私はそんなことを感じていました。

あたらしい憲法のはなし

2015年9月19日 柴幸男 『あたらしい憲法のはなし』

(文:水谷八也/編集:清田隆之)

(2)へつづく