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真夜中の苦い誘惑 #月刊撚り糸 (2021.5.7)

静かな部屋に、インターフォンの音が鳴り響いたのは、午後10時になる頃だった。

こんな遅くに、誰だろう?
首を傾げながら、モニターを確認すると、そこにはお隣の部屋に住む、進藤蓮さんが立っていた。
蓮さんは、大きな荷物を抱えていた。

一瞬、優香の顔がよぎる。
丁寧に塗ったマスタード色のマニキュア。
「興味」というささやかな欲望が、陽太からもらった、私の左手薬指の婚約指輪を外させた。

静かに玄関の扉を開く。
蓮さんは、ぺこりと会釈をしてくれた。

「夜分遅くにすみません。実は先ほど、あなた宛に届いた荷物、間違って受け取ってしまったみたいで」

ちらりと見えた宅配伝票には、母の名前が記されている。
定期的に送られてる荷物の大半は、食料品だった。

「いえ、わざわざありがとうございます」

蓮さんから、荷物を受け取る。
それは思っていた以上に重たくて、足元がぐらつくと、蓮さんは私の身体を支えてくれた。
トクンと、胸がざわつく。心が細胞分裂を繰り返しているような、そんな気がした。

「女性には重いですよね。よかったら、中まで運びましょうか?」
「お願いしても、よろしいですか?」
「もちろんです」

蓮さんは私から荷物を受け取ると、「お邪魔します」と呟きながら、部屋の中へと入っていった。

「すみません、その辺に適当に置いてください」
「はい、じゃ、ここに置いておきますね」

部屋の片隅に荷物を置いた蓮さんは、「それじゃ」と急いで部屋を出て行こうとした。

「あ、待ってください。よかったら、コーヒーでも飲んでいきませんか?」

少し驚いたように、蓮さんは振り返った。

何やってるんだろう、私。
でもこれは、優香を裏切ってるわけじゃないから。
荷物を部屋の中まで運んでくれたお礼よ。
言い訳にもならない言い訳を、心の中で繰り返す。

「はい、じゃ、ご馳走になります」

蓮さんが優しい顔で微笑む。
とても、二股をかけているような、そんないい加減な男性には見えなかったけれど、どうしても、この人を知りたいと思う気持ちに勝てそうになかった。

「すぐに淹れますね。適当にソファーにでも座って待っててください」
「ありがとうございます」

蓮さんがソファーに座ったのを確認すると、私は急いでコーヒーを淹れた。
香ばしい香りが、鼻腔をくすぐる。

「はい、どうぞ」
「ありがとう。いただきます」

蓮さんの目の前にカップを置いて、私も少しだけ距離を置いて、ソファーに腰をおろした。
カップを手に取って、コーヒーを一口すすると、蓮さんが私の指を見つめているのに気づいた。

「そのマニキュア、とてもお似合いですね」

優香の部屋で塗った、いわくつきのマスタード色のマニキュア。
蓮さんは、ふたりの彼女を裏切って、他の女の部屋にいることに、罪悪感でも感じているのだろうか?

「ありがとうございます。そう言っていただけて、嬉しいわ」

薬指に、婚約指輪をしていたら、急速に蓮さんに惹かれる自分に、ブレーキをかけられたのだろうか?
外した婚約指輪は、玄関に置きっぱなしだった。

私は静かに蓮さんの手に、自分の手を重ねた。

「真帆さん?」
「私の名前、覚えててくれたんですか?」
「えぇ、まぁ」

曖昧に濁した蓮さんだったけれど、ふたりの彼女と同じ名前の私なのだから、当然のことなのだろう。

「先日、引っ越しのご挨拶に伺った時、部屋にいた方は、蓮さんの恋人ですか?」
「いえ、彼女はただの幼馴染です」

まっすぐな瞳で見つめられる。
なにがこの人の魅力なのか、言葉では説明できないけれど、重ねた手を離したくないと思ってしまった。

窓から見える満月が、妖艶に輝いている。
月の輝きが、私たちの関係を試しているのかもしれない。
この目を閉じて、優香と陽太を裏切るか、それともこの手を離して、「コーヒー美味しいですね」と微笑むのか。
夜遅くに訪れたこの誘惑の時間の行方は、まだ私の手の中にある。


このシリーズは連作となっています。よろしければ上記マガジンよりお楽しみください。

2021.5.7

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#月刊撚り糸 #夜分遅くにすみません


いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。