友達のままで
唇を重ねるたびに、距離を感じる。
恋人たちにとっては、幸せな行為であるはずのキスのはずなのに。
「瑠奈」
甘く痺れるような声で名前を呼ばれて、ゆっくりと近づいてくる紘平の気配を感じながら、私はもう一度紘平のキスを受け止めた。
触れただけの唇はすぐに離れ、紘平は私の手を取る。
夜の街をゆっくりと歩き出す紘平の後に続いた。
私と紘平って、こうやっていると恋人同士に見えるのかな?
紘平の手をギュッと握りしめる。
「どうした?」
「なんでもない」
心配そうに私を見下ろす紘平から、もう一つだけキスが舞い降りてきた。
二人を繋ぐモノ。
そこには何もない。
手を伸ばしても、するりと消えていってしまいそうな紘平。
“好き”って言葉なんてなくて。
“愛してる”なんて言葉もなくて。
あるのは曖昧な二人の、曖昧なキスと儚い夢。
いつもの店に入り、いつもと同じように食事をする。
ただ違うのは、今日は紘平が隣にいるってこと。
いつもは向かい合ってする食事も、今夜は店が混み合っていてカウンターでふたり、肩を並べた。
すぐに触れられるほどの距離にいるのに、近づけば近づくほど、紘平との距離を感じてしまうのはどうしてだろう。
食事を終えて、店を出る。
いつもより心拍数の多いのは、気のせいよ。
気のせいでないのならば、それはきっとお酒のせい。
紘平が私の手を絡め取る。
繋がれた手から感じる温もりに、純粋な想いなんて一欠けらもない。
私は堕ちるしかないんだ。
“好き”って言葉を飲み込んで、ただ紘平と唇を重ね合わせた。
「瑠奈」
耳元で囁かれる、ずっと変わらず大好きな声。
私は肯定の意を込めて、小さく頷くしかできない。
そこに愛なんて存在しなくても、抱いてほしいんだ。
紘平の傍にいられるのなら、それだけで構わない。
真っ暗な空には、悲しいほど何もなくて、月も星も輝かない夜。
こんなのは、恋じゃない。
空に輝く全てのモノから否定されているようで、私は絡み合った手に力を込めた。
「……どうした?」
優しい笑顔は、初めて会った時のままで、いつでもふたりが出会った時へ引き戻される。
あの頃は、好きって気持ちが言えなくて。
子供すぎた私と紘平。
抱き合って、温もりを確かめあえたのなら、言葉なんてなくても気持ちは伝わったんだろうか?
「ごめん、何でもないから」
零れそうになった涙は、真っ暗な空を見上げてごまかした。
◇◇◇◇◇
何度唇を重ねても、何度身体を重ね合わせても、距離を感じるのは何故?
心が手に入らなくても、傍にいたいと、自ら選んだ道なのに。
「瑠奈」
甘く囁かれて、消え入りそうな理性が純粋だったあの頃のふたりのことを思い出させる。
セーラー服を着て、紘平の自転車の後ろに乗っていた私。
恋が叶わないなんて、そんな儚い未来なんて知らずに、ただ一緒にいるだけで幸せだった。
いつか言ってくれると信じていた“好き”って言葉を、今も待っている愚かな私は、きっと、ずっと、こうしている限り、永遠に紘平から卒業できないだろう。
あの頃は知らなかった紘平の肌の温もりは、一度知ってしまったら、もう失いたくない。
例えそこに愛なんてものが存在しなくても、私には手放すことなんてできない。
隣で安心したように眠る紘平の、柔らかな髪の毛に指を絡めた。
甘い吐息と共に、紘平に抱き寄せられる。
「起きてたの?」
「ん、今起きた。瑠奈は眠れなかったの?」
そう言いながら、紘平はゆっくりと私の背中に手を這わせた。
「ね、もし私が紘平のこと好きだって言ったら、どうする?」
一瞬だけ、困った紘平の瞳は、私にはごまかせなかった。
「ごめん、嘘よ。忘れて?」
泣きそうになるのを必死に堪えて、私はベッドの中、紘平に背を向けた。
困らせたいわけじゃない。
私の一番望むモノに、形なんて必要じゃないから。
欲しいのは、言葉でもカタチでもない。
たとえ曖昧な関係のままでも、紘平と二人でいられるのなら、私は地獄へだって堕ちるよ。
「瑠奈?」
後ろから私を抱きしめる紘平を感じながら、目を閉じる。
偽りの愛の中、私はいつの間にか眠りについていた。
◇◇◇◇◇
目を覚ますと、もう紘平はいなかった。
儚い夢は一夜の危険な情事。
夢から醒めた後は、いつも何も考えたくなくて、ベッドに残された僅かな紘平の温もりから離れられない。
でも、今日はどうしてだか行きたい場所があった。
紘平と出会った場所。
もう二度と行くことはないと思っていた場所。
空は爽やかに晴れていて、気持ちいい水色だ。
いつかしなければいけない決断も、潔くしたのならば、こんな空のように綺麗に澄み渡ることができるのかな?
できるよね、きっと。
いつまでも曖昧なままのふたりではいられないんだから。
大きく深呼吸をして、歩き始めた。
ふたりの、決別の未来へ。
◇◇◇◇◇
グラウンドでは、野球部が練習をしていた。
その奥のテニスコートでは、テニス部が練習している。
テニスコートの横を通り、私はさらにその奥にある体育館に向かった。
此処で見る紘平が、私は一番好きだったな。
体育館では、あの頃と同じようにバスケ部が練習をしていた。
違うのはそこに、紘平がいないってこと。
体育館の二階に上る。
練習試合でもあるのかな。体育館の反対側では、違うユニフォームの生徒達が練習を始めていた。
紘平のことを意識し始めたのも、確か練習試合を見た時だっけ。
それまでは、ただの友達にしか思えなかったのに。
手摺りにもたれ掛かりながら、その試合が始まるのをただ眺めてた。
二階には少しずつギャラリーが増えてくる。
私が何年か前まで着ていたセーラー服姿の後輩たちを見ていると、それだけで純粋だったあの頃の想いが蘇ってくる気がした。
「……紘平」
大好きなその名前をつぶやいた。
返事なんてなくても、紘平はいつも知っててくれたよね。
私が此処から紘平を見ていたこと。懐かしさに、胸が締め付けられる。
突然視界が真っ暗になった。
こうやってされるのは、何年ぶりだろう。
私は、目隠しをしてきた、その手に触れた。
「……紘平?」
ゆっくりと解放され、光りが飛び込んでくる。紘平は私の隣に並んだ。
目覚めたら、いなかった紘平。
私には束縛することも、我が儘を言うことも許されない。
でも、こんな風に逢えた偶然に、運命を感じたかった。
「いつも瑠奈はここから応援してくれてたよな」
「……うん。バスケしてる紘平が一番好きだったから」
素直な言葉が、サラリと出てくる。
こんな言葉をあの頃に言えていたなら、ふたりの未来は変わったのかな?
「俺も瑠奈のこと、大好きだった。再会できたこと、本当に嬉しかった。今ももちろん、瑠奈のことは特別に想ってる。でも、それはあの頃のような恋愛感情じゃないんだ」
わかりきっていた答えなのに、涙が頬を伝っていく。
泣いたら困らせるだけなのに。
最後の瞬間くらい、最高の笑顔でいたいのに。
「ごめんね。でも私、紘平に再会できたこと、本当によかったと思っているから」
紘平の大きな手が、私の涙を拭った。
同時に優しいキスがひとつ、舞い降りてくる。
唇が離れると、紘平は私に背を向けて歩き出した。
溢れ出す涙で、紘平の後ろ姿が霞んでいく。
きっとこれでよかったんだよ。
淋しさに甘え、傷口を舐めあっていてもふたりは幸せにはなれないのだから。
さようなら。
私の大好きな人。
◇◇◇◇◇
何年経っても、忘れられない人がいます。
いくつの恋を重ねても、募るばかりの恋があります。
不完全燃焼だったこの恋は、きっと私の命が尽きるその瞬間まで、終わることはないでしょう。
曖昧だった私たち。
「好き」のたった一言を伝える勇気を持てなくて。
いつか終わってしまう恋よりも、永遠に続く友情を選んだ。
でもね、そこに恋が存在する限り、友達ではいられない。
あなたの幸せを願いつつも、後悔してしまう過去があるから。
あの体育館で別れてから、五年という月日が流れても、想いは色褪せることを知らない。
愛と呼ぶには、あまりにも遠くて。
言葉にできない想いを、キスに込めた。
身体を重ねれば重ねるほど、距離を感じて。
欲しいモノはたった一つだった。
もう二度と戻れない、過去への切符。
過去は変えられなくて。
現在を変えなきゃ未来は変わらなくて。
ふたりが選んだ“友達”という、この世の中で一番曖昧かもしれない関係を、絶つしかできなかった。
それでもね、紘平。
二度めの出会いがあったように、三度めの出会いを信じているから。
もう一度巡り逢えるように。
その時は今度こそ本当の友達になれるように。
fin
いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。