マスタード色の主張 #月刊撚り糸 (2021.1.7)
蓮の背中に、爪を立てた。
貰ったばかりの、マスタード色のマニキュアが塗られた爪は、蓮の背中になにを主張したいのだろう。
蓮は、少し驚いたように私を見つめ、そのまま不躾に唇を重ねてくる。
蓮の唇はとても乾いていた。そしてすぐに私の咥内に入ってきた舌が、私の舌を絡め取った。
抵抗の意を込めて、さっきより強く、蓮の背中に爪を立てる。
蓮は少し顔を歪めると、私の唇を解放し、そのまま私をベッドに押し倒した。
「どうして言ってくれなかったの?」
何のこと? と言わんばかりに、蓮は眉をひそめ、首を傾げる。ちらりと私のマスタード色のマニキュアが塗られた爪を見た蓮は、右手ひとつで、私の頬にかかった髪の毛に触れると、蓮はそのまま私に背を向けた。
蓮の背中は、私が爪を立てた場所がくっきりと赤くなっている。そこに口づけたくなる衝動をおさえた。
こういうときの蓮は、黙秘を貫く。
そうやって、いつものようになかったことにして、蓮の背中に抱きつけば、きっと蓮はそのまま抱きしめてくれる。
なにも言わないかわりに、いつもより丁寧に、愛してくれるだろう。
外には針金のように細い三日月が、頼りなく浮かんでいる。
今にもポッキリと折れてしまいそうなそれは、まるで自分の心のようだった。
蓮の背中に触れる。まずは右の手のひらで。私が残した爪痕をゆっくりとなぞる。
このまま蓮のことを抱きしめればいい。
いつもそうしていたじゃない。そうすれば、また変わらずに蓮は私を抱いてくれる。
体温が高めの蓮の背中は、ピクリとも動かない。
今度は左の手のひらで蓮の背中に触れた。
私が抱きしめるのを待っているの?
ふたりの間に流れる沈黙は、とても冷たかった。
「どうして言ってくれなかったの?」
背中に向かってさっきと同じトーンで問いかける。
窓にうつる蓮の表情を盗み見ると、蓮の眉がピクリと動いた気がした。
きっと、私がいつものように抱きしめるのだと思っていたのだろう。
そうすればよかったのかもしれない。今この瞬間ですら、動かない蓮の背中にもう一度爪を立てた。
真っ赤なマニキュアにすればよかった。そしたらきっと、それは蓮の身体からドクドクと流れる血のように見えて、私もこのくらいで許すことができたかもしれない。
蓮の背中から手を離し、両手で蓮の首に触れる。
早く言って。
そうしないと、私はこの手で蓮の首を絞めてしまうかもしれない。
窓越しに、蓮の顔を見つめた。
「何を知りたいの?」
蓮がポツリと呟く。その声は、震えてこそいなかったけれど、抑揚は感じられなかった。
あくまでもとぼけるつもりなのか。窓にうつる蓮の表情はまったく変わらない。
胸がギュッと締め付けられ、涙がひとしずく流れ、蓮の背中を濡らした。
今ならまだ間に合う。この手を首から離して、蓮のことを抱きしめるだけ。
そうすれば、今この瞬間起きたことなんて、まるでなかったことのように、蓮は私を抱きしめてくれるはずだ。
だけど、私の手に力は入らなかった。首を絞めることも、抱きしめることもできなかった。
無言のままの私の手を、蓮の手が掴んだ。
蓮は私の手を首から離すと、くるりと向きを変え、私を抱きしめた。
「どうして言ってくれなかったんだ?」
今度は、耳元で蓮が囁く。
私好みの低い声が、私から理性の仮面を剥がしていった。
「怖かったから」
「どうして、怖いと思ったの?」
また一枚、理性の仮面が剥がれ落ちた。
蓮が私の耳たぶを甘噛みする。
吹きかけられた蓮の吐息に、甘い声が溶け出す。
蓮は狡い。私が蓮から離れられないことを、私以上に知っている。
答えられずにいると、私の耳たぶから唇を離した蓮は、今度はマスタード色に塗られた私の爪を見つめた。
「知らない方がいいこともたくさんあるだろ。俺たちが愛しあう理由は、ひとつだけじゃないんだから」
心も身体も、蓮だけに染められたいと思う私は、きっと間違っている。
言ってほしいと思う気持ちは嘘なんだろうか。この関係にピリオドを打ちたい。私たちが愛しあう理由は、ひとつじゃなきゃいけない。
「このマニキュア見たら、言ってくれると思ってた」
マスタード色のマニキュアは、蓮のもうひとりの彼女が私にプレゼントしてくれたものだった。名前も知らない彼女の爪にも、同じマスタード色のマニキュアが塗られていた。
蓮が彼女にプレゼントしたというマスタード色のマニキュアは、彼女にとてもよく似合っていた。
どうして彼女が、私の存在を知ったのかは知らない。だけど、私を責めるわけでもなく、彼女は自分が蓮の本命ではないことも、ちゃんとわかっていた。
だけど、どうして私に会いにきたのか、その理由だけはわからないと言っていた。
きっと私も、蓮の本命なんかじゃない。
だって蓮が誰かと愛しあう理由は、ひとつじゃないから。
今までだってそうだった。
蓮は無条件に自分を抱きしめてくれる人を待っていただけだ。
それが私である必要なんてない。
「よく似合うよ、そのマニキュア」
蓮が私の指先に口づける。
愛してるなんて、そんな言葉がほしいわけじゃない。
だけど、どうして言ってくれなかったの?
あなたなら、言えたでしょう?
「愛してる」って。
2021.1.7
いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。