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Liar kiss*永遠の片想い*(第一話)

1.狂い出した歯車

忘れられないなら、無理に忘れる必要はないんじゃない?

ずっと好きでいればいいんだよ。
ずっと想っていても、いいんだよ。

いつかその想いが風化して、自然に新しい恋ができるかもしれない。

でも、もしそれでも忘れられなかったら。
そんな風に、たったひとりの人を好きになれたこと、誇りに思えばいいじゃない?

だから、泣かなくていいの。
ずっとずっと、好きでいていいんだよ。


◇◇◇◇◇

何度、この夢を見たんだろう。
あと何回この夢を見たら、忘れられるんだろう。

目尻の涙を拭って、ゆっくりとベッドから起き上がると、静かに窓を開けた。

暖かな春の陽射しのわりに、少し冷たい風が部屋の中に入り込む。

柔かな空の色。
目を閉じて、春の空気を思いきり吸い込んだ。

私、桜井美紀(さくらい・みき)。
この春、2年めを迎えたごく普通の会社員。

ベッドサイドで、震えるスマホを手に取ると、ディスプレイに表示された名前を見て、通話ボタンをタップした。

『美紀ちゃん、おはよう』

「おはようございます」

電話の相手は、平原蓮佑(ひらはら・れんすけ)さん。

私が大学時代から通っている、バー“アシンメトリー”のオーナー。
オーナーとは言っても、私より少し年上なだけで、かなりのイケメン。

そのおかげで、バーには蓮佑さん目当てのお客さんもかなり多いらしい。

『今夜、来る?』

「……うーん、今夜は同期会があるんです」

『そうなんだ、残念。でも、彼氏は作らないでね』

そんな蓮佑さんだから、私のことなんて相手にしなくても、近寄ってくる女の子はたくさんいるはずなのに。

「……そんなに簡単にできませんってば」

電話の向こう側の蓮佑さんに、思わず苦笑いする。

私のことを、好きだと言ってくれてるのが本当なのかそれとも冗談なのかはわからないけれど。

私にはずっと、忘れられない人がいる。

「どっちにしても、近いうちに飲みにいきます」

『うん、待ってるから』

蓮佑さんとの電話を早々に切り上げて、私もう一度窓の外を見つめた。

残酷な恋の記憶。

私がずっと、忘れられない彼の名前は、水嶋達矢(みずしま・たつや)。

たっちゃんは、高校の同級生で、友達の元カレで、そして、私の“初めて”の相手。

たっちゃんが、唯(ゆい)を選んだときから、この想いは封印しなきゃいけないって、思っていたのに、私は唯を裏切った。

あの瞬間から、どんな罰も受けるつもりだった。
もう二度と逢えなくても。
もう二度と恋ができなくても。

スマホをテーブルに置いて、クローゼットの中からお気に入りのワンピースを取り出す。

スマホに入ったままの、たっちゃんの電話番号もメールアドレスも消せないまま。

あともう少しだけ、好きでいてもいいよね?
まだ想っているだけなら、許されるよね?



◇◇◇◇◇

「美紀ちゃん、おはよう!」

タイムカードを押すと、いつもの明るい声に呼び止められる。

伊東亜弥(いとう・あや)さん。
本社にいる、私の同期だ。

「相変わらず、朝から元気だよね、亜弥さんは」

「そりゃ、今日は特別よ。このワンピースだって、今日のためにわざわざ新調したんだもの」

亜弥さんは、その場でくるりと回ってみせた。

今夜の同期会をセッティングしたのは、他ならない亜弥さん自身だ。

私たちのいる会社は、都内だけでも支店の数がたくさんある。
同期とはいっても、入社式も研修も支店や支部ごとに行われるから、他の支店の同期とは会うこともまずない。

今回の同期会も、たまたま銀座中央支店に出掛けた亜弥さんが、そこで同期の一人に一目惚れしたのがきっかけで、同じように向こうの人も本社にいる誰かに一目惚れしたとかで、お互いの協力の元にセッティングされたらしい。

「でも、美紀ちゃんのそのワンピースも初めて見たかも」

「そう?」

「もしかして、新しい恋をする気になったとか?」

亜弥さんには、少しだけ話したたっちゃんへの想い。
私はフルフルと首を横に振った。

「恋は、始めようと思ってできるものじゃないでしょ」

「そりゃそうだけど……ずっと好きでいたいだけだなんて、それで美紀ちゃんは幸せなの?」

亜弥さんの質問には答えずに、曖昧に笑って誤魔化す。

幸せかどうかなんて、考えたこともなかった。

でも、想っていることさえも許されないのだとしたら、私はやっぱり幸せじゃないだろうと思う。

「いいから、早くコーヒーの準備しちゃおうよ。今日は定時でしょ?」

「もちろん!」

話題を変えると、亜弥さんは嬉しそうに頷いて先に給湯室へ入っていった。

新しい恋、か。

大学時代には、二人の人と付き合ったこともある。
でも、その人たちへの感情は、たっちゃんへの想いとは全く違う。

幸せな気持ちも、苦しい気持ちも、まるでどこかに忘れてきてしまったかのように感じることができなかった。

まるで、空気のような穏やかな恋だった。
二人に言われた最後のお別れの言葉も同じ。

“美紀は結局、最後まで俺のことを好きになってくれなかったよね”

寂しそうに、悲しそうに言われたその言葉は、今でも胸に残っている。

たっちゃんの代わりを、他の人で埋めようとしたらいけないんだ。

「ちょっと、美紀ちゃん!? そんなに淹れたら、」

亜弥さんの言葉に、我に返ったときはすでに遅く、私は淹れたてのコーヒーを、カップからこぼして自分の手にかけてしまった。

「……あっつい、」

「もう、当たり前でしょ?」

私よりも慌てた亜弥さんが、思いきり水道の蛇口をひねって、私の手を冷やしてくれる。

「もう、泣くほど痛いの? 医務室にでも行く?」

亜弥さんに言われて、自分が初めて泣いていることに気づいた。

「ううん、大丈夫だから。そんなにかかってないし、少し冷やせば平気」

「本当?」

「うん、本当に大丈夫」

亜弥さんに心配かけたくなくて、笑顔を向けると私は水道を止めた。


◇◇◇◇◇

いつになくたっちゃんのことを考えてしまうのは、きっと今朝見た夢のせい。

社食で遅めのランチを取りながら、私はスマホを取り出した。
呼び出したたっちゃんのメモリー。
この番号やメールアドレスがまだ使われてるのかさえもわからない。
それでも、ここから消したらもう二度と逢えなくなりそうで、ずっと消すことができなかった。

「あれ、美紀も今ランチ?」

トレーにサンドイッチとコーヒーをのせて、私の目の前に腰を下ろしたのは、もう一人の同期でもある広瀬凛子(ひろせ・りんこ)。

「うん、凛子も?」

「そうなの。課長ってば、なかなか帰ってこないからさ。お腹空きすぎて、死ぬかと思ったわ」

凛子はコーヒーに砂糖だけいれると、サンドイッチにぱくりとかぶりついた。

「……ねぇ、凛子、」

「ん?」

そのまま、上目遣いで視線だけこちらに向けた凛子。

「凛子は、忘れられない人とかいる?」

大きな瞳で、ぱちくりとまばたきを二度した凛子は、コーヒーでそのサンドイッチを流し込んだ。

「……いるよ、」

凛子から返ってきたのは、意外な言葉。
社内恋愛をしている凛子は、ひとつの迷いさえも感じられないほど、彼に一途なのだとばかり思っていた。

凛子は肩をすくめて、そしてまた何事もなかったようにコーヒーを啜る。

「私、美紀の親友が言った言葉、すごく共感したの」

「……ずっと好きでいてもいいってやつ?」

「うん、あとそれだけ誰かを好きになれたこと、誇りに思えばいい、だっけ?」

それは、高校時代の親友、皆実(みなみ)がくれた言葉だ。

たっちゃんへの想いを、凛子と亜弥さんに話したとき、亜弥さんはどこか理解できないって感じだったけれど、私は凛子がわかってくれて、少しだけ気持ちが楽になった。


◇◇◇◇◇

「水嶋達矢です―――」

その名前を聞いたとき。
ゆっくりと、でも、確実に廻っていた私の時間が、ガラガラと音を立てて、巻き戻されていくのがわかった。

今朝見た、夢の続き?

高校時代と何一つ変わらない声と、変わらない表情に、思わずじっと見つめてしまう。

ちょうど、私から一番離れた対角線上のその席にいた、たっちゃん。
たっちゃんもまた、私がこの場所にいることに驚きを隠せないようだった。

「……ね、美紀ちゃん。カッコイイでしょ?」

左側の席に座っていた亜弥さんが、私の身体を肘で軽く小突きながら囁いた。

「……え、あ、うん、」

思わず作った笑顔。
亜弥さんの視線が、再びたっちゃんに向けられると、私ももう一度たっちゃんに視線を移した。

高校を卒業して以来。
一度だって、すれ違う“偶然”すらなかったのに。

どうして神様は、今さらこんな意地悪をするんだろう。

「へぇ、あの人が亜弥ちゃんの狙ってる人ね」

「うん、そうなの。素敵な人でしょう?」

嬉しそうに笑う亜弥さんの表情は、高校時代にたっちゃんへの想いを告白してきた唯のことを思い出させた。

イヤな予感が、胸をざわつかせる。

亜弥さんが、たっちゃんのことを?
嘘だよね?

気を利かせた凛子は、亜弥さんがたっちゃんの目の前に移れるように、私と亜弥さんの間に割って入ってきた。

たっちゃんの後に続いた、三人の男の人たちの自己紹介なんて、まるで耳に入ってくることはなかった。

私の目の前の男の人が自己紹介を終えると、次は私の番とばかりに、みんなの視線が一気に寄せられた。

「桜井美紀です。本社の経理部に所属しています」

それだけ告げると、たっちゃんと視線が絡んだ。
二人の間だけ、まるで時間が止まってしまったのかと思えるほど、その一瞬が長く感じられる。

隣の席の凛子が立ち上がると、たっちゃんの視線が私から逸れた。
それがまるで合図のように、止まった時間が歯車を狂わせたまま流れ始める。

最後に、亜弥さんが自己紹介を終えると、亜弥さんは積極的にたっちゃんへと話しかけ始めた。

もう一年も勤めているのに、まさか同じ会社だなんて気づかなかった。

経理部で私が任されている日常業務といえば、ほとんどが数字の確認。
おかしなデータがあっても、対応してくれるのは支店の事務の女の子だから、総務部にいる亜弥さんとは違って、支店にどんな人がいるのかなんて、知る機会もなかった。

「……桜井美紀ちゃん!」

さっきまで、たっちゃんの隣に座っていた男の人が、私と凛子の間に入ってきた。

「……あ、はい。……えーっと、」

突然のたっちゃんとの再会で、上の空だった他の人たちの自己紹介。

「……ショックだな、覚えてくれてないなんて」

少し淋しそうに肩をすくめたその男の人は、持ってきたビールジョッキを私のジョッキにカチンと合わせた。

「俺は小野健一(おの・けんいち)です。よろしく」

笑うと、少し目尻の下がる小野さん。
他の二人よりは、話しやすそうだ。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

小野さんの方を向くと、自然に視界に入ってくるたっちゃんと亜弥さんの姿。

悟られないように、無理矢理笑顔を作りあげた。
凛子は、他の二人とすでに盛り上がっている。
一番離れた場所に座っているのに、時々聞こえてくる亜弥さんとたっちゃんの楽しそうな笑い声は、胸に鈍い痛みを与えた。

できることなら、耳を塞いでしまいたい。
今すぐ、この場所から消えてしまいたい。
受け入れることのできない現実。

「……聞いてる?」

目の前で、ずっと何かを話していた小野さんの言葉すら、耳には入ってこないというのに。

「あ、はい」

適当に相槌を打つと、不安そうだった小野さんの表情が笑顔に変わった。

「……じゃ、行こうか。先に行って、入り口で待ってて? すぐに俺も抜け出すから」

耳元で囁かれた言葉に、思わず小野さんの顔を見つめた。

たっちゃんと亜弥さんも、凛子たち三人も話に盛り上がるばかりで、まるで私たちを気にかける様子はない。

抜け出すって?
まさか、二人で?

適当に相槌を打っていた自分が悪かったとはいえ、強引な展開と酔いに、思考が冷静に働かない。
先に行っててとばかりに、小野さんに背中を押されると、私は仕方なく個室の外に出た。

どうしよう。

ちらっと中を覗くと、私の目の前に座っていた男の人に、何か耳打ちしている小野さん。

このまま、逃げ出してしまおうか?

同じ会社でなければ、迷うことなくそうするのに。
躊躇しながら店の外に出ると、突然後ろから腕を引っ張られた。

「……走れ、美紀!」

「えっ?」

その声がたっちゃんだとわかると、たっちゃんに手を引かれたまま、私は走り出していた。
まだ、そんなに酔ってないとはいえ、急に走り出したせいなのか、段差のないところでもつれてしまった足。

左膝を、思い切りアスファルトに打ち付けてしまう。

「……大丈夫か?」

離れてしまったたっちゃんの手は、そのまま私たちの膝を捕らえた。

間近で顔を覗き込まれて、膝の痛みなんて忘れてしまうほど、心臓の鼓動が動きを早める。

破れたストッキングに、滲む血。
たっちゃんはポケットからハンカチを取り出すと、そっと拭き取ってくれた。

「相変わらず、美紀はドジだな」

「……ど、どうせ私はドジですよー」

「本当だよ、この手もヤケドしたんだって?」

高校時代から変わることのない優しい笑顔。
たっちゃんの手が、今朝コーヒーをかけてしまった左手に触れる。

鼓動は、私の口よりも正直に跳ね上がった。

プイッと顔を背けると、そのままたっちゃんに抱きあげられて、さっきよりも、さらにたっちゃんの顔が近くなる。

「……ちょっ、私なら大丈夫。一人で歩けるから下ろしてよ」

「小野に捕まりたいなら下ろすけど? あいつ、結構しつこいから。狙った女は、落とすまで絶対に諦めないタイプだし」

「……ま、まさか」

「いや、嘘じゃないし。伊東さんに何も聞いてないのか?」

「え……亜弥さんに?」

たっちゃんは大きく頷いた。

「小野のやつ、この前本社に用事があったときに、美紀に一目惚れしたらしいんだ。それで偶然伊東さんと美紀が話してるのを見かけて……紹介しろってさ」

嘘!?
それって私のことだったの?

確かに、誰かを気に入った人がいるとか聞いてたけど。
本社にいる誰かとしか聞かされてなかったから、てっきり先輩の誰かだと思ってた。

そっか。そうだったんだ。

亜弥さんにしては、やけにしつこく誘ってくるから、何かあるんじゃないかと気にはなっていたけど。

よほどたっちゃんのことを気に入って、私に会わせたいんだとばかり思ってた。

私を抱きかかえたまま、たっちゃんはまだ待ちの少ないタクシー乗り場に並ぶと、すぐにやってきたタクシーに私を乗せてくれる。

「……送ってってやりたいけど、」

「いいよ、私なら大丈夫だから。早くみんなのところに戻らないと、」

「……そっか、悪いな。気をつけて帰れよ?」

少し淋しそうなたっちゃんの笑顔。

さっきまで私を抱きかかえてくれていた手が、私の頭をポンと撫でてくれた。

そんな風にされるのは、久しぶりで、記憶の中にしまい込んだ過去に無理矢理連れていかれそうになる。

「……ねぇ、たっちゃん」

「ん……?」

「どうして、唯と別れたの?」

ずっと聞きたくて。
でも、唯にも聞けなかった言葉を口にすると、返事の代わりに、たっちゃんの手が私の頭から離れる。

そして答えることを拒絶するかのように、ドアが閉められた。

どうして?

困ったようなたっちゃんの表情に、胸がズキンと痛んだ。

タクシーが走り始めると、私は座席に身を沈めた。
冷静になんて、まだなれそうもない。
ひとつずつ、今夜私の身の回りで起こったことを整理していく。

誰がこんな風に再会するだなんて予測できたんだろう。
唯を裏切った罰は、もう二度と逢えないことだったとしても、仕方ないと思っていたのに。

回ってくる酔いにゆっくりと目を閉じる。
忘れたかったのに、いつも近くにいたたっちゃん。

そっと唇に触れると、一度だけ二人で唯を裏切った日のことを思い出した。

“友達だろ?”

そう言ったときのたっちゃんの表情は、今でも鮮明に思い出せる。

あの一言に傷ついて、でもあの一言に、確かに救われたから……。

どうして今さら、私の前に現れるの?

もう二度と出逢わなければ。
もしもまだ、たっちゃんが唯と付き合っていたなら。

忘れられたかもしれないのに。


第二話へ続く。



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