その気持ちは、愛とは呼ばなかった #ひかむろ賞愛の漣

人はひとりだけど、孤独ではない。
支え合うこともあれば、並んで歩くこともある。
尊敬し合い、慈しみ合い、愛し合う。
ひとりだけど、孤独じゃない。
そんな風に想うことのできる大切な人がいるから、ひとりの時間も大切にすることができる。

孤独じゃないから、生きていく上で通じる瞬間がある。
溶け合う瞬間のような。自分と混じって、自分の中に溶けていくような。

もしも、自分は何にも影響されたことはない、影響を受けたことはない、と言う人がいるのだとしたら、それは本当に孤独な人なのかもしれない。

本を読む。テレビを見る。音楽を聴く。家族や恋人、友達となんでもない話をする。
そのひとつひとつの行動が、自分という人間を作り上げていく。

特に創作活動をしていると、似ている世界というものによくぶつかることがある。
既視感と言えばいいのか、その言葉が正しいのかわからない。
だけど、人は生きている限り、ありとあらゆるものから影響を受ける。
電車の中の女子高生の会話から、インスピレーションを受けて、小説を書くこともあるだろうし、テレビドラマで見た内容からインスピレーションを受けることもあるだろう。

その人なりの世界観がきちんと描かれていれば、その既視感のようなものをあまり感じることはない。
その人の書くものをよく知らないからこそ、既視感が生まれる気がする。

私が小説を書くとき、拘っていることがある。
それは、ハッピーエンドだ。
決して主人公のふたりが結ばれることがハッピーエンドなのではない。
愛する人と別れてしまうことも、愛する人を殺してしまうことも、その世界に住む登場人物たちにとっては、それが一番のハッピーエンドということもある。

noteでは特に、甘めの小説をアップしているけれど、私はビターな大人小説も書く。
本来なら、甘めの小説よりもずっと、切ない小説の方が得意だったりもする。
私には私の描く世界の色が確かに存在する。

かなり前のことになる。私の元へ、交流したこともない方から、メッセージが届いた。
その人は、私が当時とても仲良くしていた方のファンだと言っていた。
それをきっかけで、私のことを知ったと。私の作品を読んだと。一通目のメッセージはそのような内容だった。
私の書いている小説が、当時仲良くしていた方の影響を強く受けているんじゃないか?
二通目のメッセージの内容は、ざっくりとそんな感じだった。

私と彼女は、色で例えると、白と紫だった。
どちらも、ひとりでありながら溶け合うように重なり、新しい世界を作り出してた。言葉で、それぞれの世界を吸収し、自分の世界を描いていた。

全く影響を受けなかったのか? と聞かれれば、お互いがお互いに影響を与え合っていたはずだ。
それでも、私たちの描く世界は、やっぱり白と紫だった。紫がかった白になるわけでもなく、紫が薄くなっていくわけでもなかった。

その人からの二度目のメッセージで、私は小説を書く人間として、大きなダメージを受けた。
私は本当に影響を受けているのか?
それは私だけなのか?
客観的な答えは、自分では出すことが出来なかった。
彼女には、そのことを相談できなかった。
もしかしたら、メッセージをくれた人は、彼女にも同じ内容を送っているかもしれない。
結局私は、私たちふたりを知る友達に相談をした。判断してもらいたかったのだ。客観的に。

答えはやはり、白は白で、紫は紫だった。
私の世界は、私にしか描くことはできなくて、彼女の世界は、彼女にしか描くことはできなかった。
私の描く物語を好きだと言ってくれる人もいれば、彼女の描く物語を好きだと言ってくれる人もいた。
両方を好きだと言ってくれる人ももちろんいた。

私は、見ず知らずの人からのそのメッセージをもう一度読み返した。二通のそのちょうど間に、彼女からのメッセージも何通か混じっていた。
その時使っていたサイトでは、IPアドレスというものが表示されていた。
普段はあまり気にならなかったその数字の羅列を見て、驚いた。
私にメッセージを送ってきた人と、彼女のIPアドレスが一致していたのだ。

そのときの衝撃は、ナイフで心臓を刺された気分だった。
メッセージを送ってきたのは、彼女本人だった。でも、彼女はそれを認めなかった。
あくまでも、同居人が自分のいない隙に勝手にパソコンを使い、サイトにログインし、私にメッセージを送っていたんだと。
でも、その言葉を信じることができなかった。
だって、そのメッセージが送られてきた時間は、彼女が家にいた時間だったのだ。それはいくつもの私とのやりとりが証明していた。
それに、万一本当にそのような同居人がいたとしても、勝手にパソコンを触らせるだろうか?
サイトへのログインパスワードを、どうやって知ることができたのか?
全てを考えても、辻褄が合わない。穴だらけの言い訳だった。

人を信じることが出来なくなった。
同じモノ書きだったはずの彼女は、言葉のナイフで私を刺した。モノ書きなら、何よりも大切なはずの言葉で。
ボロボロだった。たくさん泣いた。どれだけ泣いても、言葉で刺された心臓からは、赤い血は流れない。
何をしても、癒されることはなかった。

でも、その反面、どこかでホッとしている自分もいた。
自分たちは白と紫という確かな世界観を持ちながら、いつか乗り越えることのできない相手の存在に、醜い嫉妬をしたかもしれない。

白はどこまでいっても白で、紫にはなれない。
紫もどこまでいっても紫で、白にはなれない。

私たちに必要だったのは、醜い嫉妬じゃない。お互いを敬う高貴な嫉妬だったはずだ。

彼女から最後のメッセージが届いた。
そこにもう言い訳はなかった。
一緒に進んできた道が、もう二度と交わらない道へ歩み出すところだった。
でも彼女は、言い訳の代わりに、「追憶」というひとつのメッセージを置いていった。

もし私が、彼女を許すことができたら、「追憶」の話を書こう。
心が涙を流す。信じたい気持ちがゼロだったわけじゃない。それでも客観的証拠が、彼女とその人が同一人物である可能性が高いことを指し示していた。
もちろん、冷静になればいくつもの綻びがあった。壊れるのはきっと時間の問題だった。

私は、彼女を許すことができなかった。
言葉のナイフで刺された傷は、簡単に癒えるものではなく、何年経ってもそのときのことを思い出して、古傷をえぐる。

高貴で美しい紫だった。
愛すべき、私の誕生石のアメジストのような、そんな美しい紫だった。

紫色を見ると、心の痛みを思い出す。心の叫びを思い出す。
そのたびに、癒されたくて、言葉を探す。
救いの言葉を、たくさんたくさん、探してしまう。

私は今でも彼女を許せていないだろう。
言葉のナイフを使ってしまった彼女のことを、これから先も許せる時はこないだろう。

それとも、そう思いながらも、私は本当はどこかで彼女のことを許しているんだろうか?
小さく小さく、胸がざわつく。
あのときもっと、言葉を交わしていたら、分かり合えたんじゃないか?
そんな風に想うこともある。

信じることって、難しくないはずだ。
愛することも、難しくないはずだ。
言葉と言葉を交わす私たちは、毎日肌と肌が触れ合っているのと同じなんだと思う。

私は高貴で美しいその色を胸でしっかりと握りしめる。
そっと優しくこの手で触れる。

大丈夫だよ。大丈夫。
私はきっと、大丈夫。
私の手の中にある紫のこの石は、私を守ってくれる。私の心を守ってくれる。


上記の企画に参加しております。

私の誕生石、アメジスト。
この企画を知った時、私が思い浮かべたのは、Kojiちゃんのこのイラストと、紫色の彼女でした。
慈愛ってなんだろう?
漣ってなんだろう?

一度漣が立ってしまった関係を、深い深い愛で、守ることができなかった。
きっと、守ることだけが愛じゃない。
突き放すこともまた愛なのだ。
結局まだ、私の中の私は、時折涙を流して水面を揺らしてしまう。

あゆみさん、素敵な企画をありがとうございます。
彼女の言葉は、私の心に届かなかった。私の心に響かなかったのは、そこに確かな愛が存在しなかったからだと思います。

私は言葉で愛を紡ぎたい。
ありきたりな言葉じゃなく、大切な人に届く、その心に届く愛を。

改めて自分の心に残された傷に触れ、見つめ合うことができたことに感謝いたします。

いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。