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すべてがまとまって、ひとつの世界を創り出す

小説でも詩でも、エッセイでも、書いていて残念だなと思ってしまうことが最近ある。きっと、私以外にも感じたことがある方はいると思う。

noteで何かを書くとき、みんなのフォトギャラリーから画像をお借りする方が多いと思う。
私はその画像を選ぶとき、作品のひとつとして画像を選んでいる。キーワードをいれて検索をかけて、ぴったりのものがなければまた別のキーワードで検索をする。そして納得がいくまで画像を選ぶ。どうしてもないときは、フリー画像をお借りしてくるときもある。でも、私だったら使っていただけたら嬉しいからという気持ちで、みんなのフォトギャラリーに登録している。だから、他の方々も同じように誰かに使ってもらいたくて登録しているんだろうって思って、基本的にはみんなのフォトギャラリーから使わせていただきたいって思っている。

ひとつの記事がひとつの作品なのだとしたら、そこには使わせていただいている画像も、もちろん含まれている。文章に添えられた写真やイラストを、適当に選んで使っているわけじゃない。ひとつの作品として完成したものを公開するのにあたり、納得のいくものを選んでいるのだ。

だから、公開してしばらくした頃、たまたま見直したnoteに、使わせていただいていたはずの画像が消えてると、かなりのショックを受ける。ダメージに近い。

もちろん、写真を撮った人、イラストを描いた人に著作権があるのだから、取り下げることも自由だ。よくわからずに登録したけれど、誰かに使ってほしいとかそういう意味で登録したんじゃなかったのにって人もいるだろう。noteを退会する人だっているだろうし、仕方ないとは思っている。

だけど、やっぱりひとつの作品として、納得して公開ボタンを押したnoteの、大切な部分が失われた状態で公開されているのは、やっぱり自分で中途半端に公開しているような気になってしまう。そういうのを見つけたら、また新たな画像を探して使わせていただいているけれど、書いたその瞬間の「旬」のタイミングで選んだものと、後から選んだものでは、やはり心の中でどこか引っかかってしまう部分があるのだ。

使っていただいたとき、登録者に通知がくるように、その画像が使えなくなったとき、利用している人にも通知がくればいいのに。

とはいえ、やっぱりその「旬」を大切にしたい私としては、登録する方には使われることの意味を考えて登録してほしいな、なんて思ってしまう。

2021.1.19

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いつか自分の書いたものを、本にするのが夢です。その夢を叶えるために、サポートを循環したり、大切な人に会いに行く交通費にさせていただきます。