母の味、っていったらセロリのキーマカレー

花粉症がなかった頃、春はただただ気持ちが明るくなるだけの季節だった。
気候はだんだんと過ごしやすくなってくるのにずっと鼻の奥に何かがつかえて息が苦しい、こんなにいい天気なのに決して元気100%でいることができない、それだけで毎日にうっすら憂鬱が垂れ込めて、同時に春って曇りの日も意外と多かったんだとか、この生半可な温かさってどこか苛立つものもあるなとか、今まで思ってもいなかったようなことが心に引っかかりはじめた。
そうでなければ「春愁」という季語の美しさを理解することはできなかったかもしれないけれど。そこだけは認めてやってもいい。








人の良い人が好きだし、性格のひねくれた人は嫌いだ。
当たり前のようだけど、たまに自らのひねくれた性格に開き直り、そしてごくたまに良い人のことを「偽善者」「八方美人」「正義ぶって」「見返りが欲しいだけ」などという言葉で攻撃する人がいる。そういう人たちはこうは思わないのだろうか。



人の良い人でありたい。そう強く思う方の人間である。
だから、例え偽善者と思われようと、私はとにかく相手が喜ぶようにしたいと思うし、できる限り思いついたプラスなことは相手に伝えるし、マイナスなことは頭に浮かんでも不用意に口に出さないよう徹底している、つもり。

前提として私は良い人でありたいと強く思うだけで、別に根が良い人なのではない、自分がすごく可愛いので。そういうのはどちらかというと「意識と努力」の範疇だ。




たまに、その努力があまりにも報われないなーと思う時がある。もうこの人のためにそこまで意識しないで良いのかな、なんて。
自分が心の底ではどう思っているかをたまに認識して、私全然最低のやつやんと思う時もある。本当に普段は良い人「ぶってる」だけなのかもなって。



でもやっぱり良い人の優しさや気遣いに触れた時のありがたみや幸福感はとてつもなく大きいものだから、どんなに最低な自分がいたって、一部の人からどう思われたって、私も良い人でい続ける意識と努力をし続けようと思わされる。




母が最たる例だ。

仕事が疲れたというだけで私に不機嫌を撒き散らされても、まだ慣れない時期だからとぐっと堪えて適度な距離を取り、そのくせ食事だけは泣きそうになるくらいの温かみとたっぷりの栄養を込めて出してくれていた。
あの日々を久しぶりに思い出した。
気づくのが遅くなってしまったが、母も働いて帰ってきている立場なのに、溢れんばかりの気遣いが本当にありがたかったなと思う。そんなことができる人間は誰が何を言おうと、ただひたすらに尊いのだ。


ごくごく久しぶりに、母にちゃんとありがとうと言えた。
これも良い人でいようと思った結果の行動。

それでいい。

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