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停滞

停滞しているように感じるときって、
たくさんある。
進みたいのに進まないとき。
進みたいなら進めばいいだけなのに、
それを自分で進もうとしていないようにしか感じられないとき。

今も、とっても停滞して感じられる。

ひきこもっている時。
やりたいことが何もない時。
このままではいけないと焦りだけがつのるのに、
どこか落ち着いた安定や平穏、おだやかさがあり動きだそうと思えないとき。
「学校に行かなきゃ」「はたらかなきゃ」「はたらきたい」
やらなきゃとやりたいが混在し、ただ進むのみ、前進あるのみだと思うのに、
できない現実だけを積み重ねるとき。
そういったできない現実のつみ重ねが重苦しくなり、どうしてできないのだろう、自分はいけないことをしている、いつになったら抜け出せるだろう、どうすればいいだろうと、何度も何度も同じ思いが渦まくとき。


一度ぬけたら、終わりじゃない。
ぬけたと思っても、それは何度もやってくる。
何度も何度もやってくる。
「もうなにもやりたくない」「ゆっくりしていたい」
という甘い誘惑。
「できない」「よくない」「やらなきゃ」
と重さと暗さとに緩慢としめつけられる時間。
そういう時期が何度も何度もやってきて、
ひきこもっては出て、ひきこもっては出て、
間には思考のうずと心身の重たさと無気力や葛藤を引きずりながら、
ようやく焦りと不安をばねになにか思考のヒントをむりやり
引っ張ってきてなだめすかして無理くり適当に思考のおしくらまんじゅうをしてようやく暗闇の洞窟から抜け出す、
みたいなことをやる。
うんざり、うんざり、めんどくさい。

今は、またよくわからない、停滞の中にいる。
仕事やお金といった現実や責任からずっと回避しているように感じられる。
よくない、向き合わなきゃ、向き合うことできてない、
と思いながら、気が付くと1日が終わるような、
緩慢な真綿でじぶんを締め付けているように感じられるような、
挑戦していないような1日が過ぎてゆく。
どうやったら、この微妙な日々は過ぎてゆくのだろうかと、
迷いがある。
「これでいいのか」「いやよくない」と
何度もそのような自信のなさがもたげる。
でも焦る思考とはべつに、からだはもどかしい程に、我関せずというようにマイペースにのんびりと生きている。
だから、思考をつかいすぎか、コントロールしようとしすぎか、とも思う。

「流れに身をまかせる」
「執着を手放す」

この2つがずっと、あたまの中で言っている。
その通りなのだとおもう。
それでもって、いったい何のことを言っているのか、わからない。
だって、どうにか挑戦しようとしなければ、
のほほんと何もせずにいたら、ぜったい変化はなくてよくないではないか。
だから、挑戦はするし変化もするし、「流れに身をまかせる」は、
なにもしないわけではないのだと思う。
ただ、できることを一つ一つする、という意味なのだと思う。
大きな変化を起こそうとするのではなく、緩慢で変化にとぼしく思えようが、できてることは出来てることとしてあり、
実入りは後になってやってくるのだから、結果なんて気にせずによろしい、ということであろう。
朝起きてごはん食べて、友人と話して、本読んで勉強して、地域の活動に参加して、たまに散歩して、夜はぐっすり寝て、明日こそ仕事に行こうと準備して、
1日で成果や変化を起こそうとするのが間違っているのだろう。
大きな1歩や勇気や果敢な決断に思えることは、実はずっと準備してきたことなのだ、きっと。

「執着を手放す」は、これこそさっぱり、
何のことを言っているのか、意味がわからない。
欲望や手放したくないものがいっぱいある、ような気もするし。
シンプルに、大切にしたいものは本当にわずかである、といった身軽さは少ないようで、それがごちゃごちゃした近頃であるというのか。
まぁ、ごちゃごちゃするのはいいのだけど。
まぁ、これも意味がわからなくても、言語化できなくてもいいのだと思う。
わたしはエレコでいうところの水だから、言語化は必要ではない。
できることをつみ重ねればよろしい、ということであろうか。
手放したあとになって、身軽になったから手放せたんだな、とわかることも
きっとあろう。

あ、でも思考の整理は必要かなと、こうやっていっぱい文章かいて
アウトプットするのは気を付けている。
どうやら、ここ2か月はインプットがありすぎて、学んだこと感じたこと学びたいことが、ごちゃごちゃごちゃごちゃと、わたしの中を渦まいていて、
飽きることなく学んだり思考したりを、堪能しつづけた日々なのだと思う。
その反動から、ちがうモードの日常に戻るのに、戻り方がわからなくなった、という感じなのだけど。

この、思考しつづけるモード、
思考や学びばかりつづけて一人ひきこもってばかりいるモード、
それに葛藤する、
みたいなのしょっちゅうあって、あまり好きではない。

その前の時期は、めちゃくちゃ社交的・外交的で、興味関心好奇心が旺盛で、何から何までスポンジのように気になって気になってインプットがすごく進んで、
みたいなのが大抵ある。
それでもって、あまりの刺激の多さにオフになって、オフになったらひきこもりになって…とか、
あまりのインプットの多さに消化するためしばらく感覚オフにして、ひとりでたっぷり思考してたら引きこもりになって、人に会うのや刺激を入れるのがいやになって…とか、
そうなる。

たいてい、どうしよう…と途方に暮れるし、
冒頭にあるようにいつ抜けるかと焦りと不安に苛まれるので、
あまり好きではない。

心身が重くなるとか、
ひとに会いたくなくなる、刺激をおそれるとか、
いろいろあるけど、
この学びや思考の時間は才能でもあると思うから、
もうちょっと、まぁ動きだすから大丈夫さ、と楽観的でいたい。
活動すること、挑戦すること、刺激に触れること、
それらへの恐れや不安、ハードルが減ったら、きっともうちょっと楽観的でいても、大丈夫なのだろう。
今はそれらへの不安や恐れがあって、
動きだすのが大変だから、焦りや不安で葛藤しながらえいやっと無理やり
どうにかする、時間が必要なのだろう。
この、自分が好きでなくなる、自分を信じられなくなる、時間はもうちょっと手放せたらいいのにな~と、正直おもう。
まぁ、おいおい、のんびりでよい。

停滞につかまって引き摺り込まれる、
思考の渦につかまってカチコチに固くなる、
を減らしてゆるやかに動きだしていくために、
このように すこし穏やか目に、いろいろと思うところを言葉にし、
アウトプットし、軽くなり思考を進め、からだも動き出していく、
というのをやっていたりする。
「流れに身をまかせる」でいえば、今はけっこう、ちからが抜けて
流れがうまれ、流れていっている感じがする。
また固まったり止まったりしたとしても、この流れを掴まえていくことは、またきっとできるだろうと思う。
この、文章が次からつぎへと生まれてくる感覚、じかんは、とっても好きだ。
わたしはわたしの文章、ことばが大好きだが、それはいつも生まれてくるものではない。
滾々と湧き出てくるときがあるのだ。そういった時は、心身魂が、底抜けてどこかずっと遠くから、闇の奥から、心身魂の深海や井戸の底から、声が聴こえてくるような感覚がするのだ。
わたしはだから、無意識という存在や、そのちからを信じることができるし、目に見えるものに囚われあせるのでなく、どこかゆったりと落ちついて構えることもできたりするのだ。

もう少し、声なき声を書いてゆく。


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