鈴木邦男さんとぴちゃこという変なあだ名

鈴木邦男さんは紳士的な人であった。
まず第一印象がそうだった。

当時、私は親から仕送りのないボロアパートに住む第二種育英会奨学金頼りの貧乏大学生だった。まだ、大学に入りたての。

予備校(河合塾)の講師である英語の里中氏と阿木幸男氏が中心となり、日本財団後援で高田馬場にある早稲田奉仕園で、かなりの頻度で講演会が開かれていた。

予備校の頃(小田急の始発で通うほど当時熱心に勉強していた)、たまたま里中氏にその講演会に誘われた。

それが良くも悪くもすべての始まりだった。

ノンポリのお嬢様エスカレーター式12年一貫制良妻賢母育成学校からの離脱でもある。

私は水を得た魚のようにのびのびとし始めた。

まず、その講演会を運営していた大学生達(いつもそうだが先輩面してこない)と仲良くなった。アップルシード、というサークルだった。

予備校学費を稼ぎながら勉強していた金のない私に、皆優しかった。

講演会が終わると、何故かみんなでゾロゾロ居酒屋に移動した。

私は居酒屋に入ったことがなかった。
まず、お金がどのくらいかかるのかわからなかった。ので、人に「いくらくらい払えばいいんですか?」と恐る恐る聞いた記憶がある。

「んー。2000円くらいかな?」
胸を撫で下ろした。よかった。財布の中身で足りる。

周りの人と話しているうちに、生まれて初めて食べるホッケの焼き魚に感動しているうちに、良くわからず頼んだレモンサワーの効きもあり、気づくと「どん底」という店を貸し切り状態の3次会でラブミーテンダーをカラオケ(これもまた生まれて初めて)で歌っていた。
テレビを見ない生活なので、流行りの歌を知らなかったのだ。

酔うのは楽しかった。
未成年だった。
犯罪である。
が、楽しかった。

だいたい新宿ゴールデン街の「クラクラ」がねじろとなった。
予備校生の分際で。
それも人様の金で。
蕎麦寿司をほとんど一人で平らげていた。
ボトルを空にし、代わりに麦茶を入れたりしていた。

ゴールデン街が閉まるのは早い。
始発を待っての解散後、千駄ヶ谷にある予備校の授業が始まるまで、新宿小田急ハルクの2階の前にある広場のベンチで寝ていた。
朝陽が当たってとても暖かかったのを覚えている。

貧乏予備校生の私は、無料で飲み食いできる貴重な場を発見した。
さらに、膨大な社会情報が得られる。

帰宅して家族と祖母にかいつまんで話した。

父は「みーちゃんよかったね」と笑顔で、
母は「いやねぇ」と渋い顔をした。

祖母は「もう借金は返さなくていい」と、予備校学費をチャラにしてくれた程、喜んでくれた。

話が脱線してしまった。
今気づいた。

鈴木邦男さんの話であった。

そんな講演会のある日、鈴木邦男さんが呼ばれた。

私は、初めて右翼(新右翼だけど)の方と対面するのをワクワクしていた。
朝生でよく拝見していた。

居酒屋で、真っ先に鈴木邦男さんの隣に座った。

酔うと本音しか言わない私は、気づくと鈴木さんに食ってかかっていた。

「今の天皇って好きなんです。だいたい24時間365日、一生誰かに見張られて生きるなんて酷すぎる。人権がないじゃないですか。可哀想すぎる。あの人が好きだから、天皇制を廃止したいんです。普通の人みたいに暮らさせてあげたいんです。」
と、まくしたてた。

鈴木邦男さんは笑って、

「天皇制がなくなったら、政治的に陛下を利用する人や団体が出てくる。危険です。」
と笑顔で答えた。

簡単に論破された。

「むぅ…」とうつむいていると、乾いた目からハードコンタクトがぽろっと落ちた。

「あ、目から鱗が落ちた。」と私は言った。

鈴木さんは大爆笑していた。無茶苦茶笑っていた。ツボだったのだろう。

「右翼でも左翼でも、きっと仲良くできると思うんです」

私はキッパリ言った。

鈴木邦男氏に無茶苦茶気に入られてしまった。

『僕の憲法草案』という本の出版記念ミニパーティーなるものに連れて行かれた。

そこで、演劇の話になり、小学生の頃ブレヒトの『肝っ玉おっ母』を見に行っていたく感動したことを話すと、出版元のポット出版の沢辺さんが、
「ウチでバイトしないか」と言ってくれた。

バイト先確保!!と私は嬉しかった。

鈴木さんも嬉しそうだった。

(余談ではあるが、同席していた橋爪大三郎は感じが悪かった。)

ポット出版に拾われ、働き始めてからも、鈴木邦男さんからバイト先にバンバン電話がかかってきた。

「ぴちゃこ、元気?今日、下北沢で演劇あるんだけど。一緒に行かない?」

「うわー有難うございます♪」
「沢辺さん仕事途中だけど行ってきていい?」

「しょうがねぇなぁ」

何故かその頃からぴちゃこ、と鈴木さんにあだ名をつけられて呼ばれていた。

ペチャペチャよく話すからかもしれない。

ちなみに鈴木さんの連れて行ってくれた記憶に残る素晴らしい演劇は、
『ザ・寺山』という寺山修司のお芝居だった。

本当に感動した。
本当に感謝した。

鈴木さんは、施設を出ると先ず最初に必ず聞いてくる。
「ぴちゃこどう思った?」

この人は、いつもまず人の意見を聞く。
謙虚の塊みたいな方であった。
それが、とても嬉しかった。
誰かが自分の意見に耳を傾けてくれる。

鈴木邦男さんの姿勢が、私の会話の姿勢となれればよい、と思っていた。
今でもそう思う。

(余談。でも人生で一番感動した演劇は、沢辺さんの連れて行ってくれた岩松了の『アイスクリームマン』だけど。)

鈴木邦男さんは、カソリックの女子校で苦しんだ私の気持ちをわかってくれた。
自分も「生長の家」にいたことを話してくれた。
さながら仲の良い親子のように、私たちは仲良しだった。

鈴木さんは、終始、私を大事にしてくれた。
セクハラのセの字も、皆無だった。

一水会の定期講演会も、「ぴちゃこに任せる。好きな人呼んでいいよ。僕が連絡とるから。」

と言ってくれて憧れの色川大吉さんを呼んでくれた。

街宣車の中を見てみたい。という私の素朴な願いも叶えてくれた。

一水会の事務所はやはり高田馬場にあり、念願の街宣車デビューを果たした。わりと簡素な内装であった。
しかし、昔の軍歌ではなく、何やら美しいと感じるクラシックを流していた。

「何この綺麗な曲。」

大学院生の会員の男の子が熱くナチスについて語ってくれた。ホルストヴェッセルだったのか。今ではよく覚えていない。そのうちその男の子と、利他愛と利己愛について大論争になった。が、仲良く事務所に戻った。

(その後、一水会事務所は、私の終電を逃した際にたびたび宿泊施設として大活躍した。
左翼の私に、右翼の皆んなは優しかった。皆、紳士だった)

帰宅した際に父に聞くと、ナチスの親衛隊に関する話と党歌について詳しく話して貰えた。

ちなみに父はワグナーも大嫌いである。

でも、父も鈴木邦男さんを悪く言わなかった。

鈴木さんのお家は東中野の小さな古いアパートだった。
一度、お邪魔したことがある。

入ってすぐ、右手にコタツがあった。本棚が整理整頓されていた。奥に小さな窓があって、昼間でも灯りをつけていても暗かった。

「原稿依頼して来てもね、原稿料払うどころか掲載もしてくれないところもあるんだよ」

鈴木さんはコタツに入ったまま、悲しそうにそう言った。

私はビックリしていた。
テレビの有名論客が、こんな苦労をしながら孤独な生活をしているのが、信じられなかった。

当時1991年くらい。

私は一緒にコタツで泣きそうになった。

「大丈夫ですよ。みんなわかってくれる人はわかってくれますよ。」

そう励ますくらいしか出来なかった。

本当は、私も、鈴木さんも、非力だった。
ふたりでいつも話していたのが、非暴力についての話だった。

「もう僕は暴力は嫌なんだよ」

いつも悲しそうに鈴木さんはそう言っていた。

誠実さを絵に描いたような人だった。

今はただただ感謝しかない。

唯一、困ったことがあった。
鈴木邦男さんは手紙をマメにくれたのだが、字が読めない。

「手紙、読んだ?」
「はい。有難うございます。」

いつもそう言っていたけれど、鈴木さん、ごめんなさい。
手紙はエニグマのように、解読不明でした。

嘘をついてしまった。
唯一の心残りである。

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