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感音性難聴の私が過去に経験した壮絶ないじめの事

皆さん、こんばんは。
覚悟して投稿した記事にスキを頂き
日々の励みになってます。
辞めた職場はもう終わったコトですし
福岡市に通報、内部告発もしてるので
もうこれ以上書きません。

私は現在41歳…
小学生の頃や中学生の頃を
今でも鮮明に覚えています。
ここはもう母校の名前も出していきます。

母子家庭ながら
博多区麦野で
姉と母と私で和気あいあいで
暮らしていました。
小学1年になったとき
当時、板付小学校は障がいを持った児童は受け入れなかったのか、特別学級室がなく
麦野から那珂小学校まで小さな足で
バス通学していました。
母は心配しておりました。
縁があって、私達は二日市に引っ越しをし
二日市東小学校に通うことになりました。
そこでのいじめは体型が太っていたので
ぶうちゃん、デブなど言われていましたが
耳のことはクラスメイトたちは言わず
まだ優しい心を持ったクラス仲間でした。
そこでは特別学級室もあり、障がい児童のために専門の先生もおり、安心できる最高の母校でした。

小学校卒業2ヶ月前、家庭の都合で
大野城市に引っ越しをすることに…
そのまま二日市にいれば二日市中学校へ
行けたはずなのですが…
卒業するまで電車で通い…そして
大好きなクラスメイトたちと涙の別れ。
中学生になった私は
大野城市にある大利中学校…
知り合いもいなければ友人は1人もいません。

大利中学校に入学…
親が難聴のことを先生に
伝えていたのでしょう。

先生が私のことを耳が不自由なので
皆さん、宜しくねと伝えました。
そこの大利中学校は当時、
体罰が当たり前にありました。
運動場真ん中で正座、忘れ物があれば
頬ビンタは多かったです。

ある日、習字道具を忘れました。
私を入れ、約10人が頬ビンタに…

先生からも親からも叩かれたこともない
いよいよ私の番がきたときに
先生は私の耳を見て、お前は座れ
私の後ろにいた仲良し里見は
普通にビンタされ、
私だけがビンタされなかった…

これが壮絶ないじめのきっかけとなります。
私を自殺未遂にまで追い詰めました。

いじめの内容…すごいですよ

その内容は次のページ♪





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