この世界に杭を
この世界は言葉であふれている。
人を認める言葉、人を否定する言葉、人を救う言葉、人を傷つける言葉、力強い言葉。
感情、空気。そういった言葉で柔らかくされているけれど、結局のところ、強者が弱者を縛り付けるものでしかない。
「あ、また飲み込んだ」
アイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、篤史が言った。
「飲み込むって?」
先ほど食べたサンドイッチのことだろうか。そんなに、食べるのが早かっただろうか。租借回数も、速度も、そんなに早くないはず。むしろ、パスタを頼んだはずの篤史のほうが、食べる速度も咀嚼も早い。それなのになぜ。
「だから、それだよ。マヤはすぐ言いたいこと飲み込むじゃんか」
そういって、篤史は数回、アイスコーヒーをかき混ぜてから飲み込む。ストローの作り出した渦に巻かれて、氷がカラカラと音を立てながら溶けてゆく。
私だって言いたいよ。本当は、もっとたくさん食べたいこと。スイーツなんかより、牛丼のほうが好きなこと。水族館や遊園地に出かけるより、家で映画を見るほうが楽しいこと。もっともっとある。けれど、それを全部言っても、篤史は私のことを好きでいてくれるの? あなたはいつだって私のことを考えていてくれるけれど、それはあなたが望んだ私であって、決して本当の私じゃない。
いまだってそう。貴方の言うとおり、我慢しているよ。本当は私、貴方のそのコーヒーを混ぜる癖が好きじゃない。カラカラと鳴る氷の音は、私を急かしてしているようで耳障りだし、渦の中でぶつかりながら小さくなっていく様は、人にもまれて形を変えて消えていく私のようだと、貴方の行動が嘲笑ってくる気がする。
そんなこと言ったら、被害妄想だって貴方は軽く笑い飛ばすんでしょう。
「そうかな。そんなつもりはないんだけれど」
そんなことあるよ。私はいつも貴方に乱されている。
自分のモノじゃない言葉を吐きだしながら、私は指先で右耳のピアスの感触を確かめる。
自分らしいってなんだ。
私らしい意見ってなんだ。
意思がない。他力本願。みんな自分勝手だ。間違いは認めないくせに、自由な意見を求めている振りをする。その中で、もまれながら、巻かれながら、人は意見を変えていく。さも、自分のモノの様に。人の言葉を借りて、語っていく。
きっと篤史は、その中で自分がバラバラになる感覚がないんだ。人の意見に揉まれて、自分の意見が変わる恐怖が。そんな経験、したことがないのか。そもそも気が付かないだけなのか。どちらにせよ、そんな篤史のことが、羨ましくて、妬ましい。
思えばこの感情を、恋と間違えたのかもしれない。そんなことすら、彼との関係に揉まれて、よくわからなくなってしまった。
「そういえばそれ」
「それ?」
何のことかわからず首をかしげると、篤史が私へ手を伸ばし、そのまま耳朶を優しくつかんだ。腫れ物に触るように、恐る恐る。
「ピアスなんて、いつごろ開けたの」
親指を飾りに添えながら、他の指先で耳の後ろを撫でる。その感触がくすぐったくて、逃げるようにして篤史の手から離れた。
「おととい。まだ開けたばっかりなの」
「へえ」
そっけなく返したその顔は、どこかつまらなそうだった。
「らしくないよ。マヤはそういうの嫌がりそうなのに」
「そうかな」
指先でまた、右耳のピアスの感触を確かめる。少し引っ張ったものだから、ふさがってない傷口が鈍く痛んだ気がした。その痛みが、この感触が、私はちゃんとここに居るんだと教えてくれている気がする。それだけで、まだ私は私なんだと、自信が持てる気がした。
開けたばかりのピアス傷に、何を依存しているのだろう。それでも、そう思ってでもいないと、私がバラバラになってしまう気がする。
「でもさ、急じゃない? どうして開けたの」
相も変わらず、ストローでコーヒーをかき乱しながら、篤史が聞いた。本当に納得ができないのか、拗ねるみたいに下を向いている。
「どうしてって、おしゃれ以外になくない」
自分のモノじゃない言葉が、平然と口から零れる。あなたの知らない私を隠すための嘘が、こうも簡単に出るなんて。もしかしたら、本当の私なんてもう、どこにもいないのかもしれない。人に揉まれて、アイスコーヒーの氷のように、溶けて消えてしまったのかも。それでも、開けたばかりのピアスの感触は、私を留める杭のように、固く、確かに、そこにあった。
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