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「個」にこだわるようになったおはなし

私をよく知る方は感じておられるかもしれませんが
私は「個」という言葉を、たぶんとてもよく使います。

就活でも言っていました。

先日、部屋を片付けていたら、学生時代に書いた
『文化の最小粒度は「個」である』というレポートも出てきました。

どうして「個」にこだわるようになったのか。
そのおはなしをします。

はじまり


いちばんのきっかけは、アメリカ留学です。

私は大学2年生の夏から半年間
アメリカ南部のアラバマ州立大学に留学しました。

半年というとものすごく短いですが

あと1日もいたいという心残りがなければ
途中で帰りたいと思うことが1度もなかったくらい

「やりきった」と胸を張って言える
ここにしかない学びと刺激に溢れた時間でした。

私が行った頃は、学生の約9割がアラバマ出身で
他の州から来ている学生が少なければ
留学生はさらに少なかったです。

州を出たことがないという方に沢山出会ったり
キリスト教のかなり保守的な考えを聞いたりと

この地の独特の空気を感じました。

この時以来、アメリカを一括りで考えることは
できなくなりました。

ここを選んだ背景には色々な思いがあるのですが
簡単にまとめると

・高校時代に読んだキング牧師の話が忘れられなかった
・なぜ肌の色の違いが差別に繋がるのか分からなかった
・私のもやもやは、今の環境では解消しないと思った

アメリカを知っている方にほど
何でアラバマって言われるのですが

当時の私にはここしかありませんでした。

留学要件がいちばん厳しくて
枠が少なかったことにも
ちょっとそそられました。笑

空気と化した私

私の留学形態では、留学生ということに関係なく
自由にクラスを選ぶことができました。

その中で1番学びたくて、1番学んだのは
週3コマのAfrican American Studies。

50人くらいのクラス。
殆どが黒人の学生、3名の白人学生
そこへある日ぽんっと飛び込んだ私。

毎回、涙を流す学生もいるくらいに
先生含め白熱した議論が交わされるクラスで

私は空気と化しました。

何も言えない、という気持ちが
この時を上回ったことは今のところないです。
本当に言葉が出てきませんでした。

この話になると、何をどう伝えたらよいか
かなり慎重になるのですが

例えば、テキストや発言の中のワード一つで
激しい議論になりました。

アフリカにルーツを持つアメリカ人
African-American, Afro-American

肌の色
dark brown, chocolate brown, black

1人ひとり、異なる主張がありました。

毎授業後の課題である
クラスのオープンチャットへの長文コメント投稿では
言葉の表現一つに頭を抱えました。

初回にかなり心に刺さるリプライをもらい
以降、誰かを怒らせてしまわないかと怯えていました。


みんなに"近づく"努力


単一民族の国である日本で
日本ルーツの両親のもとに生まれ育った私に
意見をいうことは出来ないと思っていました。

突然ですが「あなたのアイデンティティは?」
と聞かれたら、みなさんは何と答えますか。

これは、留学中に私が何度も聞かれた質問です。

この話をすると
何て答えたのかと聞かれるのですが
なんとなく流して、一度も答えられなかったままです。

そんなこと考えたことなかったし
そもそも考えなくても済む環境で
生きてきてしまったのかという
後ろめたさのようなものを感じていました。

私がここへ来てごめんなさい、という気持ちの中で
今の私に必要なのは、みんなに"近づく"ことだと思い

経験がないのなら、情報で埋めようと

テキストを読み込み
クラスでは全神経を集中して話を聞き
図書館の本を読み漁りました。

アラバマ大学では、テキストを含め
アフリカ系アメリカ人が書いた文献が沢山ありました。

どんな人が書いたなんて
それまで意識してきませんでしたが

この時ばかりは考えずにはいられませんでした。

これまで得てきた情報が
いかに偏ったものかを思い知ってしまったからです。

ショッキングな内容も沢山ありました。


"理解"できないという気づき


こうしてみんなに近づくための
"理解"に努めたのですが

知れば知るほど
"理解"できないことを思い知らされました。

情報があれば"想像"することはできても
同じ目線には立てないと思ってしまいました。

いつかの現代文の授業でも
「他人を理解することはできない」
という類の文章を読んだ気がしますが

本当に"理解"できないという
超えられない壁にぶち当たりました。

というより、それまでの自分は
何でも"理解"できると思い込んでいました。

それって、知ることを"理解"としていただけで
本当に"理解"しようとしたことがなかったから
できたことだったんだろうなと思いました。

そして、私は気づきました。

目の前で繰り広げられる議論の前提には、
1人ひとり違うのだから、"理解"なんてできない
という考えがあるということに。
(私にはそう見えました。)

で、思いました。
みんな対わたし、ではなく
1人ひとりなのだと。


私の変化


こうして吹っ切れた私は
周囲に負けじと手をあげて発言するようになりました。

脱空気。

日本人の私ではなくて

こんな両親の元に生まれ、こんな経験をし、学んだ
私という人間はこう考えると言えるようになりました。

このスタンスをもって自分の考えを述べてみると
案外共感してくれる人がいたり
そういう考えもあるのかと言ってもらえたりしました。

yellowっていう存在から
名前で呼んでもらえるようになりました。

素直に嬉しかったです。

書きたいことが溢れでてくるので
留学中の話はこれくらいに留めます。

今に繋がる考え

この経験を通して
私は「個」を深く考えるようになりました。

そして、根付いた考えが2つあります。

・人を真に理解することはできない
・理解できると思うのは、本気で向き合っていないから

こう言ってしまうと、もしかしたら
きつく聞こえてしまうかもしれないのですが

人に向き合わないという意味ではないです。

むしろ、それぞれが、それぞれにしか
分からないものがあると思うから

ものすごく人に向き合いたいと思います。

言葉一つをとっても
それが何を意味するのかは
人によって異なると思うし

"同じ"考えだと言っても
たぶんその背景には
その人にしかない経験があると思うから。

こうした考えに突き動かされ
色んな場所で、色んなことをする今の私がいます。

「個」へのこだわりは
これから先もきっとぶれることはない
私の軸だと思います。


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