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【小説】 黄身の名は。

荒波に揉まれてもびくともしないフジツボには、相変わらず力強さを感じる。

春休み、久しぶりに故郷の海に来ている。子供の頃から海に生息する生き物が好きでよくこの海に来ていた。観光客に知られていない、地元の人間も滅多に来ない海岸がある。岩だらけなので海水浴には不向きな海岸だ。誰にも邪魔されずに探索できる。波が荒く何度ものまれそうになり命の危険にされされた事もあったが海の生き物に魅了され、やめられなかった。

大学は海洋学が学べる所に進学した。将来はできれば海洋生物の研究者になりたい。実家は明治から続く海苔屋を営んでいる。一人息子の私が継ぐのが自然だが、子供の頃から流行りの玩具やアニメにも目もくれず、海の生き物に夢中だった。そんな息子を見てきたので両親は継げとは言わなかった。

私が海の生き物に夢中になるきっかけとなった父方の祖父に研究者になりたいと言った時、喜んではくれてはいたが、どこか悲しそうな目をしていた。私を海に連れて行ってくれたのは祖父だった。ブジツボを初めて採った時の感触や匂い、海の冷たさを今でも覚えている。海の探検セットを買ってくれたのも祖父だった。長持ちするようにと、高価なもので揃えてくれた。祖父にとっては複雑な心境だったと思う。代々続いた海苔屋が父の代で終わるのだから。私を海に連れて行かなければ、道具を買い与えなければ、なんて思ったかもしれない。そう思うと胸が痛い。だけど、きっかけは祖父だったが、それがなくても私は海の生き物に惹かれていたと思う。もしかしたら小学校の遠足で行った水族館がきっかけとなったのかもしれない。遅かれ早かれ私は海の生き物に魅了されるのだ。

長い休みを利用して色んな地域の海の調査を個人的にしている。飲み会や旅行、留学には興味はない。都会の波に揉まれると自然の波に触れたくなる。今回は祖父の墓参りも兼ねて地元の海の調査にした。岩の上に立ち、思い切り深呼吸をする。懐かしい匂いがする。岩に打ちつける波の音が心地いい。

夢中で探索をしていると、岩場から少し離れた大きな岩の上に女の子が座っているのに気がついた。小学校高学年くらいだろうか。この辺りの洋服店には売っていない垢抜けた服を着ている。側には、格子柄のお洒落なリュックが置いてある。そういえばお袋が言っていたな。実家の斜め向かいにある玉子焼き屋の孫が東京から1人で遊びに来ているって。もしかしたらあの子は玉子焼き屋の孫だろうか。玉子焼き屋には一人娘がいる。私の九つ上で、子供の頃たまに遊んでもらった記憶がある。確か東京の短大に進学したが、在学中に妊娠して中退したと聞いた。田舎なのでそういう情報は筒抜けだ。そうか、あの時できたのがあの子なのか。

私は女の子に近づき、声を掛けた。

「こんにちは。1人でここに来たの?」

女の子はいきなり声を掛けられ驚いた様子だったが、コクンと頷いた。銀紙に包まれた食べかけの茹で玉子を手に持っている。昔、玉子焼き屋に遊びに行った時にオヤツに茹で玉子を出された事があった。

「もしかして玉子焼き屋の子?」

女の子はまたコクンと頷いた。やっぱり玉子焼き屋の孫か。女の子は小麦色の肌でまん丸な顔をしている。確かこの子の母親は色白で卵形だった。風でなびいた髪の毛は、味液を塗られたばかりの味付け海苔のような真っ黒でキラキラとしている。髪の毛は母親と同じだ。親子揃って綺麗な髪の毛をしている。卵の良質なたんぱく質が髪の毛をそうさせているのか。

「名前は?君の名前はなんて言うの?」

私がそう言うと、女の子は手に持っていた茹で玉子を食べ始めた。器用に白身だけ食べて満月みたいな黄身だけを残し、それを私に見せてきた。

「…黄身?それが君の名前なの?」

私の問いに女の子はコクンと頷いた。

黄身…。本当に黄身という名前なのか?わざわざ黄身だけ残して教えてくれたのだからキミ・・という名前なのは間違いなさそうだけど漢字はどう書くのだろうか。それにしてもさっきから頷くだけで、声を出していない。学校や親から知らない人と喋ってはダメだと教えられ、それを忠実に守っているのか。名前を言わないようにと教えられている可能性もある。じゃあ、黄身という名前は本当の名前ではないのかもしれない。女の子は咄嗟の判断で私に卵の黄身・・を見せた。キミ・・なら名前としてもおかしくない。頭の回転の速い子だ。そいう事なら、名前の事は追求するのはやめよう。黄身というなら黄身でいいだろう。

「黄身っていい名前だね」

そう言うと、黄身は困ったような照れたような表情で下を向いた。

私は黄身に、波にさらわれるから海に近づかないように言い、再び探索をした。しばらくすると黄身は私に近づいてきた。そして私の手元をじっと見た。

「これ?これはブジツボ。貝みたいに見えるけど、実はカニやエビの仲間で甲殻類なんだ。岩にしっかりくっついてるだろ?この接着能力は様々な所で研究されていて…」

黄身は私の説明を目をキラキラさせながら聴いてくれた。それが嬉しくて黄身に海の生き物について熱く語った。それから私たちは岩場をまわり、一緒に探索した。次の日も、その次の日も、約束はしてないが一緒に探索をした。私たちは少しづつ距離を縮めていった。だけど相変わらず黄身は頷くだけで声は出してくれなかった。黄身の本当の名前もまだ知らない。母親の名前がわかればヒントになったかもしれないが、どうしても思い出せない。印象的な名前ではなかったみたいで、すっかり記憶から抜け落ちている。私に対してまだ警戒心があるのでもう少し仲良くなってから聞いてみよう。でも、出会った時より黄身の表情は明るくなっている。

黄身と探索をするようになって1週間が過ぎた。子供の頃、私が使っていた探検セットを黄身に貸そうと思い、物置小屋を漁っていたが見つからなかった。お袋に聞くと、もしかしたら祖父の部屋にあるかもしれないと、部屋へ向かった。私もその後に続いた。お袋は押し入れを開け、下段の奥の方へと潜った。しばらくすると「あった!」と声をあげ、探検セットを私に掲げて見せた。それを受け取り、使えるかどうか確認すると、錆び付いているのではないかと思っていたが、新品みたいに綺麗だったので驚いた。私の様子に、お袋が祖父が手入れをしてくれていたと教えてくれた。

帰省した時に使うかもしれないからと、祖父が大事に保管していた。私は大学に入ってアルバイトで貯めたお金で新しい道具を買った。それをお袋は知っていたので祖父にそれは使わないのではと言ったが、それでも定期的に手入れをしてくれていたらしい。「あんたの事、一番応援してだのは、じさまなのがもしれねぇね」そう言い残してお袋はそそくさと部屋を出ていった。その言葉に私はハッとした。あの時、私が研究者になりたいと言った時、祖父は悲しそうな目をした。あれは海苔屋が父の代で終わるからじゃなくて研究者になるという事は私がこの場所に戻って来ないと思ったからあんな目をしていたんだ。

祖父はどんな想いで道具の手入れをしていたのだろう。私が手に持って海を駆け回る姿を想像していたのだろうか。夢中になって探索する私の姿を想像したのだろうか。初めて一緒に海に行った時の事を想像したのだろうか。いつか戻って来る事を想って。

他の子供より小さく生まれた私が丈夫になるようにと手を引き、海へと連れ出してくれた祖父の硬くて温かい手が道具から伝わってくるのを感じた。私はこんなにも愛されていたのか。鼻の奥が冷たくなる。道具を握る手が温かくなった。

翌日、探索セットを持って海へ行った。それを黄身に渡すと、声には出さなかったが表情から喜んでいるのがわかった。だけど渡された道具をじっと見て困惑した表情を浮かべた。どうしたのかと聞いたら、道具に書かれている文字を指差した。そこには、平仮名で私の名前が書かれていた。祖父からもらった時に、私は覚えたての平仮名で自分の名前を書いていた。それは私の名前だと言ったら、少し間を置いてから黄身はケタケタと声を出して笑った。そして、しまったという顔をして手で口を押さえた。初めて聴いた黄身の声はいつかの水族館で聴いたスナメリの鳴き声と同じ可愛らしい声だった。

「変わった名前だろ?祖父がつけてくれたんだ。子供の頃、名前でよくからかわれていたよ。特に冬になると余計にね。こんな名前をつけられて嫌だったけど、今はそんな事は思わなくなったんだ。大好きな人が付けた名前だから、いい名前に決まっているからね」

そう言った私を黄身は驚いたような顔で見てきた。気のせいか、少し目を潤ませている。

「そうだ。本当の名前、教えてくれないか。知りたいんだ。黄身の名前を。黄身の名前は…?」

黄身はキョトンとした。首をかしげ、少し考えてから格子柄のリュックから何か取り出した。ジャポニカ学習帳の絵日記だった。それを私に見せてきた。

そういえばお袋が言っていたな。玉子焼き屋が孫にも・・変わった名前を付けたって。

なまえの欄を見ると、名字の横に控えめな字で
黄身・・と書いてあった。


(了)


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