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今の気持ち(ちなみに演歌財布も卸しました)

先日映画を観て、その予告編でまた別の映画が気になった。そしてその主題歌である、藤井風に心を打たれている。
もちろん、知っていたし聞いていたけれど、今、ものすごく感情が動くっていうか。

ひたすらyoutubeで聴く日々。
藤井さんの曲を聞くと、すごく踊りたくなって、勝手に一人で創作ダンスが始まる。
はー楽しい。

こういう、あることをきっかけで別の何かに出会う、みたないことに飢えていた。
もちろん、配給会社やマーケティングに踊らされているといえばそうなのかもしれないけれども、楽しいことなら、踊らされてもよくない?って思う。

歌詞はすごく日本的な感じがするけど、PVというのか、全体的にどこの国の人かわかんない、しかしエキゾチック、みたいなのが好きだわ。

野性的って人にとって本質なのかもなと思ったり(そして私にとって「本質」というワードは大事(だいじ)。)、でも藤井風はスマートっていうか知的でもあって、かっこいい。

私もそうなりたいな。

藤井風の名前を出したのは、脳内で曲がリフレインしているからなのだけど、私の憧れていた海外って、やっぱり旅行じゃなくて、暮らしそのもので、そしてその暮らしも、現地の人の暮らし的な土着のものなんだな、ということがなんかはっきりした。

グローバル、という言葉の響きが好きなのも、駐在とかレベルとか格式とかそういう世界線じゃなくて、もっと抽象的な憧れで、野生としての本能みたいなことなんだろうな、と思った。

そして海外の方とメールをやり取りしているとき、「あっ、もっとさっといい感じの言葉が出てこないのか」と自分にやきもきした。出そうで出ない言葉たち(単純に勉強不足。)。

というのも、「旅」がキーワードのブランドの財布を買った。

これまでもいわゆるブランドものの財布は使っていたが、「昼休みは長財布と社員証だけもってランチへ」みたいなザ・オフィスレディーをしていた時代を感じさせ、「もうそういう身に着けている記号とか属している何かで判断されるのもういいや」という気持ちになり、コムデギャルソンの小さいコインケースを使っていた。

これで十分だったのだ。

でも、お金へのコンプレックスをなくしたいと、『正しい家計管理』を読んで色々整理し始めて約1年ちょっと(そうなの、日記をみたら最初に本に書いてあることを初めてから1年以上経っていた)、「自分なりにちゃんと管理できる」という自信がつき始めた。

同時に、3年は使っているであろうコインケースの角が擦れて、全体的に疲れていることに気づいで、新しい財布を探すことにした。

新しい財布に求めたことはずばり長持ちすること。
これは機能的に丈夫であることと、見た目が飽きにくいことを指す。

財布はなんとなくずっと探していて、矛盾するようだが、「もう人生で財布を買いたくない。財布に時間を費やしたくない。」と思ったことがあって。
だからって、「どうでもよくない」のが自分のめんどくさいところ笑。

コインケースを使っている間、それまでわかりやすいブランドものの財布とバッグを使っていたため、友人から「何があったの?」と心配もとい、お給料や家計について余計な好奇心をうませてしまったことがあって。

でも、もうそういうのがめんどくさかったのよ。
何にお金を使うかなんて自由なのに、その人の価値観で使うべきものに使っていないと、ネタにされるのが、ばかばかしいな、と思ってて、もうそういう世界に足をまた踏み入れるのはやめますよ、という意思表示がコムデギャルソンだったのだ。あくまで私にとってだけど。
ちなみに、勝手に言いたいように言わせておけばいいんだけど。不快か?と言われれば不快だった。だってそういう人に限って、放っておいてくれないっていうか、めんどくさい。

その一方で、「10年もしたら、生活ではコインや紙幣なんて使ってないんじゃないか?(なくなりはしないだろう)」と思って、「もしかして人生で財布らしい財布を買うのを最後になるかも」って思ったら、俄然ちゃんとした財布がほしくなって、買った。

前述のブランドにしたのは、就職祝いや自分でも社会人になってから購入したことはあるけれど、物心着いたときにはものすごく流行っていたために、全くほしいと思ったことがなくて。

でもブランドコンセプトが「旅」で、海外やグローバルに憧れている(と思っていた)私としては、「合うのにな~」なんて思って気になる存在でした。

あとは周りで、「圧倒的に長持ち(10年、20年使っているor保っている人がざら)」というのが理由で、そこにした。

今日は縁起がいい日らしいので、今日卸してみた。

かわいい、かわいい。よい。

が、買った後に、やっぱり私「旅行」「旅」とはちょっと違ったんだなと思った。

それは今年は「旅行したい」と思って、すでに3か所行ったのだけど、分かったのは「家が好き」ということだった。

そして、私が「旅に行きたい」「海外の何かに触れたい」と思うとき、それは決まって、「自分をもっとよくしたい」という気持ちがあるということに気づいた。

私の「よくしたい」の「よく」は、良くと欲の両方ある。
自分の身体にコンプレックスというか、動物としてちょっと弱いよねと思う部分があるので、それをよくする意味で、自然いっぱいのウェルネスリゾート(自然といいつつ人の手の入ったリゾートなのよ、私の限界か)が好きだ。

リゾートではなく都市でも、そこの景観がすてきとか、そこにしかない何か、を求めて、そこで初めて生まれる感情を味わいたい、という気持ちが強いようだ。自分がそこで暮したらどうなるか、どうなれるか、みたいなことを想像するのが好きなよう。かなり夢見る夢子である。

どちらにしても、その前に旅行先でめいっぱい吸収できるようないい状態にしたい、という気持ちが先に立つ。

私はやっぱりどこにいても、身体をよくしたい、と思っているのだろうな。で、心で感じたことをどうにか表現していきたい、もっと気持ちよく心のままに生きたいなと思っている。

ここまで書いて、自分を探しているわけではなくて、どういう生き方がちょうどいいのかな、みたいなことをひたすら考えている。

それは、自然と都会、とか、心と物質、とか、資本主義と地方のコミュニティ、朝5時台のBS世界のニュースと日本のバラエティ、(対比は勝手に私のイメージですが)、とかでもなくて、自分の中でAまたはBと分けて問うてるのを、AでもBでもないでいいだな、と勝手に作っていた境界線をフラットにすることかも、と思う。

演歌の話が脱線したけど、資格の点数を上げることは現実的に得だし必要だけど、もしかして今やりたいのはカジュアルな会話なんじゃないか、みたいな、正しいいい方法ではないけど、自分がやりたいならそっちをやってみればいいんじゃないか、みたいな気持ち。

数日経てば、世間で言う正攻法はなんだっけ?と考え始めて結局そっちに乗ると思うんだけど、根本的にそっちの人間じゃないんだろうね。

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