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ひらがなとか漢字とか

障害を障がいって表記したり、双極性障害が双極症に名称変更されたりすることについての話





「障害」は「周囲に害を与える」ようなネガティブな印象があり、偏見を促して、当事者を不快にさせるため、「障碍」や「障がい」と書くべき

という議論が起こって、障害者に配慮した自治体では可能な範囲で表記を変えるなどの対応をしているらしい


言葉とか音のイメージを変えるために時間や労力を使うよりも、障害の根本の実態やイメージのための議論や新しい試みをするべきだとわたしは思う、


"しょうがい"という音が残っている限りはわたしたちは"障害"をイメージしてしまうから。







最近(?)、双極性障害が双極症に名称変更されることを聞いて色々自分で調べてみたら名称変更はそこまで珍しいことじゃないとわかった

2002年に「精神分裂病」は「統合失調症」に

2004年に「痴呆症」は「認知症」に


呼称が変わっている


わたしは、統合失調症が精神分裂病って呼ばれていたことは知らなかったし

認知症=痴呆症であることは知ってたけど馴染みはない、という感じ

かといってこれらの病気にポジティブなイメージは別にない、名前変える意味ってあるのかな〜と思う


今回新病名を検討する際の病名翻訳の原則として、以下の5項目を決めました。項目1から3は日本医学会の病名用語の趣旨を基礎においています。

患者中心の医療が行われる中で、病名・用語はよりわかりやすいもの、患者の理解と納得がえられやすいものであること
差別意識や不快感を生まない名称であること
国民の病気への認知度を高めやすいものであること
直訳がふさわしくない場合には意訳を考え、カタカナをなるべく使わないこと
ICD-11では、原則として、disorderを「症」と訳すこと
従来、disorderを「障害」と訳してきました。しかしながら、「障害」がdisabilityの意味で一般的に用いられ、国民にも広く理解されていることを考えると、dis-orderは、やまいだれの中に「正」とかく、「症」が最も相応しいと思われます。当学会では、DSM-5の病名翻訳にあたり、児童思春期の病名や不安障害に属する病名を症で置き換えましたが、概ね受け入れられています。
また、「障害」は差別意識を生まないために、「障がい」や「障碍」として使われることもあります。それとともに、病名である障害も、例えば「双極性障がい」として医学文献に登場することもしばしばあり、病名の一貫性が保てなくなっています。

ただし新病名が一般的になるまでの移行期は、場面により障害を使うことが出来るように<障害>を並記することがあります。例えば、パーソナリティ障害は、「パーソナリティ症<障害>」と表記します。




ひらがなに表記が変わったり呼び方自体が変わることは、


障害のある当事者本人には害がないから

という理由らしい






本人に害はないんだからひらがなにしよう!って悪いことではないと思うけれど

ひらがな表記に変えることで、今まで当事者本人に害があると思っていたのかなあ、と深読みしてしまうわたしもいる





わたしはこの考えについて思うことは、"害という漢字を使うのは差別にあたる"という考えはそれ自体が障害を個人に内在させてしまうということ。

害の字が悪いのではなくって偏見が先にあるから「人を害する」なんて解釈になるんじゃないのかな、と感じる



それに"害という漢字を使うのは良くない"っていうのは、"害って漢字使うなんて〜"と情けをかけられているように感じてしまう、たかが同情されているだけのように思える



障害がある人自身が害ではないことはもちろん当たり前にそう、

だけれど障害がある人が生活するにあたって何かしら害があるのは事実

個性なんて言葉では片付かない、薬を飲まないと、治療しないと生活に難があるものは個性で片付けてはいけないと思う

逆に積極的に障害と使っていくことで当事者以外に、社会的に障害を作っている状況に対して問題意識を向けてもらう方がよっぽどいい





さらに言いたいことは、障害は個人が持っている、抱えているものではなく社会が持っていることであるということ

障害を抱えている、持っている人という言葉があろうと、あくまでも実際に障害を抱えているのは社会である

社会が障害を抱えている、ということは具体的には

私たちが普通に歩いて登っている階段、車椅子の人にとっては乗り越えるのは容易ではない、苦労する
わたしたちが何気なく通過しているそれは車椅子の人からすると「障害」である

障害というのは、知らず知らずのうちに産み出された社会(システム、認識、制度)のこと
それを障害と感じる人のことを障害者と呼んでいる




誰にとっても平坦な道であることは不可能である社会

当事者本人にとって平坦でない道であることに苦労しているだけ


精神的にも身体的にも何かしら枠に当てはめられた健常者がみんなの頭の中にあって

枠に当てはまらない人間はそれ自体が障害であって、害とか露骨なこと言うのはやめておくか〜という安直すぎる考えが薄ら寒く伝わってくる


全く誰にも定義されていない「枠」にどうしてこんなに縛られるのだろう







本来は、「障害を取り除く」という言葉の目的語が当たり前のように社会(当事者ではなく)に向かうべきだとわたしは思う












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