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雑文 #161 拡大する不安

少し前までは、朝起きると
「あぁ、またこの世界が始まってしまった。コロナの世界…残念ながら、悪夢ではなかった」
と思いながら一日を始めたものだ。
しかしここ数日は変わった。
そんなふうに絶望しながら目覚めたりはしなくなり(慣れたのだろうか)、夢の中でも当たり前にウイルスがはびこっている世界が展開している。

私はノイローゼ気味なのかもしれない。
だけど私のノイローゼは「自分が感染する恐怖」に基づいているものではない。
ひとに感染させるリスクは考えるけど、重症化する可能性の高い両親などには会わないようにしているし、そこに神経質になりすぎるとキリがない、とわりと鷹揚に構えている。

私が怖いのは影響だ。
人々のパニックだ。
集団的に起こるムーブメントだ。
「自分は正しい」という思い込みだ。
それを他人に押しつけようとする気配だ。
それにうっかり自分も陥りそうな危うさだ。
正義の名の下に自分の思い込みを叫ぶ人たちだ。
同調圧力だ。
もちろん政府の政策もだ。
医療崩壊も危惧する。
そして、これからの収束の見込みなど誰にもわからないという不確かさだ。

一生懸命やることは美しいことだ。
けれどもその一生懸命の方向や質量は果たして合っているのか?
誰にもわからないことが恐ろしい。
間違った一生懸命さ、というのは、とんでもない悲劇に事を持っていく可能性があるのではないか。

だけども私たちは一生懸命にならざるを得ない。
それを誰も否定できない。
守りたいものがある者はそれを必死で守ろうとするし、誰もその権利を侵せない。
ひとそれぞれ守りたいものが異なるから、意見が真っ向対立することも避けられない。
あのひとは自分とまったく違った主張をしているから悪いひとだ、なんて言えない。
でも、たまに違和感を覚えずにいられない不完全な自分を見つけてイヤになったりする。

少しでも明るい未来を見ようとか、気晴らしにこの問題を忘れられるようなことに取り組もうだとか、この機会を利用してとことん好きなことに没頭してみようとか、そういうことができるひとをある意味尊敬する。
羨ましく思う。
がんばって趣味に没頭しようとしても、私の脳にはそれらが虚しくスルーしていく。

ただ、幼い姪や愛猫や植物を見ていると、無垢で元気で、淀んだ心が洗われる。
テレビやネットで言われる綺麗なことの殆どは、「綺麗事」としか思えなくなっていて、いろいろなことを疑ってしまう私は汚いのだなと思う。
だから真の純粋さや無垢さには、胸が打たれる。

私は事態が一ヶ月で収束するとは思っていないのである。
なるべく早く収まってほしいとはもちろん心底願っているが、それは夢のようなものだと考えて止まない。
長引けばどうなるかと考えると気が遠くなるが、それを考えないようにして避けてとりあえず毎日を送る、という楽な過ごし方もできない性分のようだ。
折れないように、緊張しすぎないように、気をつけながら毎日を消化していくしかないのだろうか。

#雑文 #散文 #日記



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