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20200618 同じことを繰り返しやすいのは何故だろう

私たちは日々さまざまな事象・現象と相対し、その度に思考と感覚を刺激されながら生きています。そして時には、それまでに認識していた「普通」や「当たり前」にガツンとヒビが入るようなことも起きたりします。

このヒビは、良くも悪くも変化という選択肢が現れる機会だと言えます。良くも悪くもと書いたのは、物理的な事情はどうあれ、それを「良いもの」とするのも「悪いもの」とするのも当人の心持ち次第でいずれにもなり得るからです。

そして、今日ここで取り上げたいのは「良い」「悪い」ではなくその手前、「変化という選択肢が現れる機会」の部分です。

人生に予期しない大きな衝撃が走ったとき、普段以上に周囲からの影響を受けやすくなることがあります。というか、おそらく多くの場合はそうなりやすいかと思います。周りの人たちを観察して動き方を模索したり、誰かに相談をして意見を求めたり、参考にできる情報がないかとさまざまな媒体を探し回ったり……

そのとき、周囲に「変化を促す要素」が多くある場合と、「保持を促す要素」が多くある場合とで、変化という選択肢が表出するかどうか、ひいては変化を選択する機会を得るか否かが変わるのではないでしょうか。

例えば、周りに似た者同士が集まっていて、摩擦よりも共感が潤沢にある場合、「わかってもらえる/わかってもらえた」という感覚を多く得やすいかと思います。この感覚は、「今のこの状況”が”イレギュラーであり、身をかがめて待てばいずれ改善する」というように、今までの自分を『保持』しながらの行動を引き出しやすいでしょう。逆に、自分とは違うタイプの人と多く接し、共感と同じくらい摩擦がある・もしくは摩擦が潤沢にある場合は、「変化を促す要素」を多く得やすいと言えます。

そして、周囲にある摩擦と共感の配分は、出かける場所や接触するコミュニティなどを選択することである程度コントロールし作り上げられるものです。しかし当然のことながらすべてをコントロールできるわけではないので、どうしても偏りが出たり、タイミングに左右されることもあります。「あのときあのタイミングでこの人に出会えていれば」と悔やむ経験は珍しいものではありません。

自分自身の思考や感覚の『保持』を選択し続けると、自ずと同じような課題や問題に繰り返しぶつかりやすくなります。物理的な事象に対する自身の性質が同じであれば、辿り着く展開も似たようなものになりやすいと言えます。変化が必ずしもよい展開を呼ぶという保証はありませんが、少なくとも保持を選択したときとは違う展開に辿り着くでしょう。物理的には似たような結果であったとしても、「以前までの私とは違う選択をした」という大きな刺激を得ているはずです。

ところが、最近気がついたことなのですが、どうやら「何故か」保持を選択しやすい環境が整いがちなケースがあるようです。普段はバリエーション豊かな刺激と摩擦を得やすい環境に触れていても、大きな衝撃が走るタイミングでは毎回「何故か」同調と共感を得やすい環境が整っている、そしてそのまま自身の『保持』を選択し続ける。気づけば同じことを繰り返している……そういうことがどうやらあるようなのです。もちろん、その逆もまた然り。「何故か」自身の変化ばかりを選択せざるを得ないケースも見かけます。

『運命』や『カルマ』といった単語が、占い界隈・スピリチュアル界隈・オカルト界隈などではよく出てきます。それらの定義は諸説ありますし、私自身も「これはこういう意味」という持論を持っているわけではないのですが、ひょっとすると、上記のような「何故か」の要素が『運命』や『カルマ』という単語で表せるのではないかと、ふと思いました。変化を望んでも、「何故か」保持を選択しやすい環境が整う。保持を望んでも、「何故か」変化を選択しやすい状況になる。どうやら、このコントロールし難い「何故か」の部分は、『運命』や『カルマ』という単語と相性がよさそうです。

とにかく、大きな衝撃に見舞われたときは、自分の性質の『変化』『保持』に対する自身の希望と、現在の自分はいずれを選択しやすい環境にいるのかという現状の確認をしてみると、舵取りがしやすくなるかもしれません。そんな風に考えた、雨の一日でした。

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