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幕末堕天譚 34【小説】

あらすじ
幕末の江戸で新興宗教の神をしている青年が、神をやめるため江戸から逃げます。

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 婀娜祇山の中腹に命と小十郎は取り残された。
 命はあまりにも憔悴していて、これ以上歩けそうにない。山のふもとから大勢の人の声が聞こえ始めた。遠くに松明の灯りが揺らいでいる。
 小十郎は京都や大阪で発生しているという民衆の狂乱を思い出した。
 民衆は幕府の揺らぎを感じている。豪商たちは所有物や権利を失わないための方策に明け暮れ、庶民は混沌と共に踊っていた。明日大地が崩れるかもしれないという不安が民衆の心にじわじわと溜まっている。鬱屈した不安は、命への敵意となって襲いかかる。
 数百の人間が山狩りを行っている。婀娜祇山から逃げることは難しい。
「命様」
 ここで死ぬのだ。命はそのことを理解しつつあった。
 薄いかぐやの衣装を着てガタガタと震えながら、こんな曇り空の寒い日に死ぬのは嫌だと思った。かぐやの力を使い果たして眠るように死ぬと思っていたのに、実際はどうだ。怒り狂った信者に襲われ、何をされて死ぬかも知れない。
 人々の肉の間に消えていった土之助の姿が思い浮かんだ。どんなに痛かっただろう。苦しかっただろう。土之助が受けた痛みを、もうすぐ命も引き受けるのだ。
「命様」
 小十郎の声に気づいた。
 この男は最後まで命に寄り添ってくれている。命は初めて小十郎の存在が有りがたいと思った。彼の温もりが、今ここにあってよかった。
「わたしたちはここで死にますね」
 小十郎は落ち着いていた。その落ち着きがありがたかった。
「お願いがあるんです」
 小十郎の顔を見た。小十郎は今まで見たことがない表情をしていた。
 ようやく小十郎の望みを、なぜ彼が命のそばにいるのかを知るときが来たのだと思った。
「私に力を使ってください。私の全身に力を与えてください」
 そうすれば小十郎は死の痛みから免れることができる。
 小十郎が落ち着き払っているのはこのためかと理解した。
 命と小十郎はこれから無惨に殺される。それなのに、小十郎だけが痛みを免れるのか。
 そう思うと暗い気持ちがわき上がった。
 そしてすぐに気づいた。もう一度力を使えば、きっと命は死ぬ。ならば小十郎に福音を授ければいい。小十郎は痛みなく、命も眠るように死ぬことができる。
「力を使えば、私は死ぬと思う」
 命は考えがまとまらないまま言葉を口にした。
「はい」
「それでも、力を使えと言う?」
 小十郎は迷わなかった。
「はい」
 命はまっすぐに自分の目を見つめる小十郎の目を見返した。
「あなたは私だけの神なのです」
 小十郎の息が荒くなっていることに気づいた。
 雪緒の顔が思い浮かんだ。彼は命の力がなにもかもを治す力だと信じていたけれど、一度も自分の皮膚を治してくれと言わなかった。雪緒は一度も命になにかを頼んだことがない。ただそばにいて、命を守っていた...
 かぐや見世に雪緒はいなかった。雪緒は子どもと日奈子と共に生きることを選んだのだろう。そうだと分かっていても、命は一目、雪緒に会いたかった。
「ごめん。無理だ」
 命はなんとか立ち上がろうとした。
「俺はまだ死にたくない...」
 両足で立ち、山肌を歩き出そうとした命の手が強い力で掴まれた。どこからか人の怒鳴り声が聞こえる。
 小十郎の手の力はどんどん強くなっていった。
「そんなはずはありません」
 命は眉を寄せて小十郎を見た。小十郎は命を掴む手に渾身の力を込めている。
「あなたは私だけの神なのに」
「違う、違うんだ。俺は神じゃない」
 命は小十郎の手を解こうとしたが、びくともしなかった。
「離してくれ。行かなきゃ」
 小十郎は命の手を離さない。
「嘘だと言ってください。あなたが、わたしを救ってくれないなんて」
 命に苛立ちが走った。なぜ、なぜ俺が誰かを救わなければいけないんだ。
「俺は神じゃない!」
 命がそう言った瞬間、あたりが真空のように静かになった。
 それから小十郎が叫んだ。きゃあああああ、という女の悲鳴のような声だった。
 命はぞっとして身体を強張らせたが、小十郎の手が緩んでいるのに気づいて、急いで手を振りほどいた。小十郎に背を向けて、木々の間を進んでいく。
 小十郎の叫び声は人々を呼びつけた。
 萎えた足で命は必死に逃げようとした。
「おい、こっちだ!」
 人の声と松明の灯りが近づいてくる。身体が思うように動かない。
 必死で足を動かそうとしているのに、それができない。
 命の目に涙がにじんだ。山中を渦巻く強風が涙をすぐに吹き飛ばしてしまう。
 雪緒に会いたかった。雪緒がそばにいたら、それだけでどんなに心強いだろう。
「いたぞ!あいつがかぐやだ!」
 ここに雪緒がいなくてよかった。
 雪緒は幸福に生きていくのだ。命と二人ではついに得ることのできなかった幸福とともに。
 強い力で腕を掴まれた。肩、胴体、顔、頭、次々に人の手が伸びてきて、命はついに捕らえられた。


 三ノ輪にある旅籠の一室に幼い息子を連れた青梅桐之丞が座っている。
 十五年前、伊吹の育ての親である浅葱を殺した男は、こほこほと止まない咳をした幼子を連れ神妙な顔つきをしている。
 第三の目を露わにして座る浅見に、幼子は怯えていた。
「外が、騒がしいようだが」
「長州と薩摩が結んだといいますから。世情は不安定です」
 かぐや見世に出ていた抜目に呼ばれ、伊吹は浅草奥山に向かった。浅見と伊吹は今日をもって抜目を解散し、命を解放する心積もりでいた。かぐや見世で起きた騒乱に狼狽えることはなかった。何があっても伊吹はここへ戻ってくるだろう。浅見にはその確信があった。
 浅見も伊吹も今日この日のためだけに生きてきたのだから。
 浅見の目が笑った。青梅桐之丞は窓の外を見ている。青梅の息子はぎゅうと膝の上のこぶしを握りしめた。


 婀娜祇山を下りた伊吹は三ノ輪に向かっていた。かぐやの信者たちはまだ婀娜祇山に集まりきっておらず、かろうじて山を抜けることができた。通いなれた路地を通って常宿である旅籠に向かう。いつも一郎と共に使っている店だ。
 一番細く暗い路地の向こうに一郎が立っていた。
「急いでるんだ」
 一郎は先に進もうとする伊吹の腕を掴んだ。一郎が、外で伊吹の身体に触れたのはこれが初めてだった。
「行かないでください」
 かぐや見世の終わりを見ていた一郎は、伊吹がこれから何をするつもりなのかを悟った。伊吹は、いつも今日という日を掴むために動いていた。
 抜目一族を自由にするため。命と一郎はそのための重要な駒になった。
 一郎は太陽屋の顧客にかぐやのうわさを流し、かぐやを必要とする高貴な人間たちを探す手伝いをしていた。その仕事ももう必要がなくなる。
「俺はどうすればいいんですか」
 抜目が解散するというのなら、俺はこれからあなたのために何をすればいいんですか。
「好きにすればいい」
 お前にはもうその力があるだろうと、黒く、どこまでも輝く伊吹の瞳が言っていた。この人の目が緩む時間を過ごしたときが、遠い過去のようだった。今はもう張りつめて、張りつめて、一郎が何をしても変わらない。
「あなたはどうするんですか」
 一郎は伊吹の望みを知っていた。伊吹に恋心を抱き続ける一郎を見て、浅見が教えてくれた。伊吹には心から愛する人がいて、その人は理由のない罪で殺されたのだと。
 あるとき、伊吹が一人の人間に固執していることを知った。
 江戸に来る前、一郎は伊吹の小姓として宴席に加わっていた。話に『関東取締出役 青梅桐之丞』の名前が出たとき、伊吹は極めて静かにその人間の動向を尋ねた。一郎はふと顔を上げて伊吹を見た。
 伊吹の目は獣のように黒々と光っていて、その男が伊吹の生きる理由なのだと確信した。
 命が江戸から逃げてしばらくしたころ、青梅の息子が労咳と診断された。
 一郎はその情報を伊吹に知らせなかったが、まもなく伊吹は命を江戸に連れ戻すよう一族に指示を出した。
 すべてを終わらせるつもりなのだと分かった。
 伊吹は黙ってしまった一郎を置いて道の先に進もうとした。一郎は何もかもの言葉を端折らなければいけなかった。
「生きてください。俺と一緒に」
 一郎は自分の顔が真っ赤になるのが分かった。耳が熱い。首も熱い。けれどもうそれくらいしか言えることがなかった。
 伊吹は感情を露わにした一郎を見た。小さく震えているのに、伊吹から目をそらさない。伊吹は一瞬よりも短い時間、ほほえんだ。
「早く浅葱兄さんに会いたいんだ」
 伊吹は一郎の頭を撫でた。一郎は伊吹にすがりつきたかった。
 すがりついて、去っていく伊吹を引き留めたかった。
 けれど伊吹がその人の名を呼ぶ声を聞いて、どうしても身体が動かなかった。
 伊吹は浅葱を愛していたのだ。何よりも強く。自分の命よりも強く。
 伊吹が浅葱にもう一度会えますようにと心から願った。


「かぐやは下の間にいます」
 外気よりも冷ややかな顔をした伊吹は青梅桐之丞とその息子に言った。
 浅見が丁寧に青梅の嫡男を部屋の外へ案内した。
 十畳ほどの部屋に青梅と伊吹だけが残る。外が騒がしい。
 浅見と子どもが去って十分な時間が経ったあと、伊吹が口を開いた。
「浅葱という男を覚えているか?」
 青梅は突然話し始めた伊吹を一瞥し、その言葉の意味を考えた。
 そして遠い昔に見た顔を思い出した。
「お前、あのときの弟か」
 青梅は一瞬目玉をくるりと動かした。階下にはかぐやに治癒の力をほどこしてもらう手筈の息子がいる。
「......浅葱殿については、気の毒なことをした」
 青梅な神妙な顔つきで言った。
 伊吹はくつくつと笑い声を上げた。
「謝る必要はない。謝ったって無駄だからさ」
 青梅は眉をひそめた。
 伊吹は立ち上がって、青梅に近づいた。
「かぐやはペテンだ。お前の息子を救う力なんてないよ」
 青梅は左手に置いた刀に手をかけた。
 階下で悲鳴が上がった。「火事よ!」
 その言葉と同時に、青梅は刀を抜いた。真鍮でできた十手で、伊吹は青梅の太刀を受ける。
「抜目風情が」
 青梅がもう一度刀を振りかぶった瞬間、伊吹は青梅の胴体を突いた。
 ひるんだ青梅の脳天に何度も十手を叩きつける。
 青梅はぐるりと目を回して倒れ込んだ。
「息子は...」
 伊吹の意図を悟った青梅は息子の安否を気にかけた。
「恨みがあるのはお前だけだ」
 その言葉通り、浅見だけが部屋に戻ってきた。
 頭を強く殴られた青梅は起き上がることができない。
「俺を殺して何になる。十年も前の話だ」
「お前を殺すとすっきりする」
 伊吹は淡々と言った。灰色の煙が辺りに充満する。
 青梅は這って部屋の外に出ようとした。襖の前に浅見が立って、青梅の手を足で払った。
 浅見の白い頬に汗が垂れた。
 部屋の温度が上がり、外から悲鳴が聞こえた。火の熱さを感じた青梅は頭をかばいながら立ち上がり、外に出ようとした。
 伊吹と浅見が、まるで双子のような姿で、青梅の前に立ちはだかる。
「なぁ、悪かった。悪かったよ。おまえらの兄貴を殺して悪かった」
 青梅の命乞いこそ、二人が見たかったものなのかもしれない。
「息子がいるんだ。見ただろ?あいつ、俺がいないとどうなると思う」
 青梅は伊吹の着物の裾を掴んだ。
「ガキを苦しめたいか。なぁ、悪かったよ。本当にそう思ってるんだ」
 ゴホ、と浅見が咳をした。外からお父様、お父様、という幼子の声が聞こえる。
「どうしろっていうんだ。あいつはもう十年も前に死んでるのに」
 青梅が最後の言葉を吐いたとき、伊吹は十手を振り下ろした。頭蓋骨の割れる音がした。うめき声をあげたあと、青梅は絶命した。

 熱さと煙で立っていられなくなり、伊吹は腰を下ろした。浅見も同じように座った。正座ではなく、足を三角にして。伊吹は浅見のそんな姿を久しぶりに見た。
「一郎に会ったか」
「店の外にいたわ。あの子を預けた」
 浅見は喉の渇きを感じていた。
「......私たち、死ななきゃだめなのかしら」
 浅見は問うた。伊吹は彼女の弟だった。
 襖の近くが熱くてたまらなくなって、二人は窓際に移動した。
「死ななくていいと思う。でも、俺はもうここで終わりたい」
 伊吹の一生は、浅葱に出会って始まった。浅葱の望み通り、抜目一族を守り抜いた。そして彼を殺した人間を殺した。
 青梅の言う通り、浅葱が死んで長い時間が経った。伊吹は一郎のことを愛し始めていた。
 でも伊吹はここで自分を終わりにしたかった。浅葱の生こそが伊吹の生だったのだと、他でもない自分に証明したかった。
「熱いわ」
 火が浅見と伊吹を取り囲んだ。もう逃げられない。
 火とはこんなにも熱いものなのか。
「お兄ちゃん、殺して」
 浅見は青梅桐之丞の刀を取って、伊吹に渡した。
 伊吹と浅見は深い抱擁をした。彼らは浅葱の存在を分かち合う同志だった。
 浅見は真珠のように白い首筋を差し出し、伊吹は浅見の首を断った。
 伊吹は青梅の脇差の鞘を抜き、自らの首に突き刺した。血がせり上がり、吹き出した。
 たまらない痛みと熱を感じた。呼吸ができなくなる。伊吹の首に灼熱が燃え上がる。
 浅見の首が落ちていた。浅見はもう死んでいた。
 涙が出てきた。ああ、浅見も死んだ。浅葱も死んだ。俺も死ぬ...
 世界が暗闇で閉じられ、熱さもどこかへ行ってしまった。

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