「私の周りはLGBTに理解のある人たち」ではなかった


私は現在同性のパートナーがいることを母親と一部の友人に伝えてある。
カミングアウトなんて大袈裟なことは考えていなかった。だってたまたま女の子を好きになってめでたくお付き合いすることになったそれだけのことだから。ただ単に、彼女が出来た喜びを伝えただけ。それはもう浮かれながら。
誰1人嫌な顔せず、中には涙を流しながら「良かったね」と言ってくれる子もいた。母には、「ふたりで仲良いから怪しいとは思ってたんだよ」なんて冗談混じりで言われたし、そんな理解のある母と友人に恵まれた私はなんて幸せなんだろうと思っていた。

けれど最近になって気付いた。私は理解のある友人に恵まれているのではなく、私が、理解してくれるだろうと踏んだ友人にしか彼女の存在を伝えていないのだということに。
この事実を重く受け止めているわけでも深刻になってるわけでもない。ただ、周りに何の偏見もない人間しかおらずその人達に伝えたというのと、周りにいる様々な価値観を持つ人の中から偏見のない人にだけ伝えたというのはだいぶ違ってくるなと思った。


高校の頃の友人に、今でもたまーに連絡を取る女の子がいる。
それまで何にもやり取りをしていないのに、元気?とLINEすればそっちは?と返ってくる。そこから近いうちにご飯に行こうという話になるわけでもなく、卒業後も付かず離れず友人をやっている。ふとそんな彼女に、恋人が出来たと伝えてみようと思った。
高校の時は、当時の彼に初めてキスされた報告をしたら「もちぼもとうとう汚されちゃったかー!」なんて茶化しながらはしゃいで、放課後に寄り道したカフェでお互いの恋の愚痴をシェアしたりもした友人。成人した今、彼女の価値観があの頃とどう変わってどこが変わっていないのか知らないまま、私はiPhoneに文字を打ち込んだ。
すぐに返信が来て何気ない会話が続く。お互いの近況を話していると、相手の方から話題を振られた。

『そういえば彼氏出来た?』

そう、まさに今からその話をしたかったんだ友よ。
私は打ち込んだ。

『出来た』

それだけ送って、「彼氏じゃないんだけどね」と追記して送信しようとして、その指がひどく震えた。
誰かにこのことを伝えるのに、こんなに震えて緊張したのは初めてだ。もしかしたらこの一言で、付かず離れずの関係が崩れるかもしれない。なんだか得体の知れない感覚が怖かった。
ああ、きっとこの感覚が世間で言うカミングアウトなんだろう。すごいいやだ。

『彼氏じゃないんだけどね』
『え?』
『女の子と付き合ってる。彼女出来た』

たったこれだけのやり取りにどれだけの時間を使っただろう。変な汗をかいてがちがちに震えて、ベッドの上でiPhoneを握りしめて私は返事を待った。またよくわからない焦燥と不安に駆られる。画面の先にいる友人もきっと、言葉を選んでいるんだろうと思った。

『そんな気してた。笑』

ポンと表示されたチャットに全身の力が空気みたいに抜けた。ものすごく安心して泣きそうになった。
先述の通り今までは「カミングアウト」という言葉をどこか大袈裟に感じていた。ただ、私がカミングアウトして友人をひとり失う事になったら、その相手も私という友人をひとり失うということになる。そんな簡単な事に気付けていなかったし、更に言えば「同性愛者?別にいてもいいけど知り合いにいたらちょっと」的な空気のある現代社会でこういった告白はかなり勇気がいる。
少数派が理解を得る時、認めてもらう時、こんなにも覚悟が必要で、私はこんなに震えてもまだまだ受け入れられないことの方が多いマイノリティなんだと改めて実感した。いつもは何でもないつもりでいるけど、私が自身の事をどう思おうと大衆に飛び込んだら少数派に違いないのだ。

それから友人とはまたしばしの音信不通になり、数ヶ月。先週年明けの挨拶がてらLINEを送ったら食事に誘われた。どうやら彼女は彼女で新しい彼氏が出来たらしい。
学生の頃御用達だったカフェにまたふたりで立ち寄って、今度はお互いの惚気話をシェアしよう。それからまた少し音信不通になって、気が向いたら近況を話し合う。そんな風に彼女とこの先も友人を続けていけることが嬉しくて仕方がない。
そして何年かして私が「そういえば私がカミングアウトした時どう思った?」と聞いて「カミングアウトって死語だよね」なんて会話が出来たら、もっと嬉しい。

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