幸せに気づくこと

たまに、自分がいったい何歳なのかわからなくなる時がある。
よく、哲学者は考え過ぎて自殺するというけれど、その感覚がわかるような気がしてくる。
自殺する気はまったくないけれど、本当に、なんだか老後を生きているみたいな感覚だ。
それはたぶん、哲学者とはまた少し違う感覚なのだろうけど。

たまたまつけたテレビ番組で、竹内まりやが言っていた。
「人生(時間)は有限なのだと、最近ようやくわかってきた」と。
私はずっと、有限なのだと認識しているような気がする。

幼い頃は、いつも死が隣にあるような感覚だった。
だから必死になって、親との問題を解決しようとしたんだ。
「最悪、死ねばいいんだ」と思いながら、本当に必死に、生きたんだ。
今は、またそれとも違う。
まだ20代だと言うのに、こんな感覚を持っているのは変な気がする。
竹内まりやは50代になって、ようやく実感したという。
そんなんだから、友達には「生きづらそうだね」と笑われる。
当の本人は生きづらいと、そこまで思っているわけではない。
むしろ昔に比べればかなり生きやすくなったし、今が一番楽しい。

パートナーは「幸せを感じずに生きてきたから、初めて感じられて、それがとても貴重なことだと理解してるからこそ、より幸せに感じられるんじゃない?」と言う。
その通りだと思う。

私が第二次世界大戦に興味があるのは、自分ではどうすることもできない重すぎる現実を生き抜いた人たちに興味があるからだ。
その人たちは「自分だけ生きてしまって申し訳ない」と言う。
私にはその感覚はわかってあげられないけど、理解することはできる。
きっと、私は私よりも凄まじい現実を生き抜いた人を見て、元気をもらうんだ。
「自分なんかマシだ」って、「だからがんばろう」って思うんだ。
それは不謹慎かもしれないけど、そう、強く思うんだ。

戦争を生き抜いて帰ってきたって、PTSDになると、煙たがられた時代。
誰も悪くないはずなのに、「迷惑だ」って責められる時代。
泣く泣く子供を殺して、生き抜いてしまった親は「恥ずかしくないのか」と言われた時代。
「ああ、今の時代に生まれて良かった」と、心から思う。
きっと私が昔に生きていたら、とうに死んでいただろう。
そういうことを考えると、今ある幸せが、より大切なものだと思えてくる。

自分が不幸せに思えているときには気づけない。
幸せって、そんなにたいしたものじゃなくて、本当に小さなものなんだ。
パートナーがいたって喧嘩はするし、時には自己嫌悪することもある。
親と仲良くなれたって、自分自身の問題がすべて解決されるわけでもない。
現実はそんなに甘くない。
でもそれを、大切に思えるかどうかの違いなんだ。
結局「気づけるかどうか」が運命の分かれ道なんだろう。

気づけるようになるためには、まずは何事も受け入れてみることだ。
イエスマンという映画があるけれど、あれは本当に良い映画だと思う。
まずは何事も受け入れてみないと、何も始まらない。
とりあえずノリに合わせてみるとか、人の意見をそのまま聞き入れてみるとか、自分のなかの「でも」を引っ込めて「とりあえずやってみる」。
そうすると、見えてくることもあるだろう。

だから、些細な日常を大切に思えるためには、やっぱりたくさんの経験が必要なんだろうし
たくさん経験するためには、一歩踏み出す勇気が必要なんだろうし
一歩踏み出す勇気を得るためには、ほんの少しでいいから、自分の居場所を見つけなきゃいけないんだろうけど。
自分の居場所を見つけるのが一番大変だったりするから、難しい問題だ。

手っ取り早い方法もあるけれど、所詮それは仮の居場所。
仮の居場所では、いつまで保つかわからないくらい、不安定だ。
それでも、ないよりマシだけどね。
でも今の時代、簡単に仮の居場所なんて作れてしまう。
本当に良い時代になった。

いったい本当に私は、いつの時代を生きてきたんだろう。
平成と令和しか生きたことがないのにね。

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