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ライフワークとしての物書き①

小さいころから漫画やイラストを描くのが好きでした。

母が相当な漫画好きで、家には「エースをねらえ」愛蔵版、「ベルサイユのばら」愛蔵版、「ブラックジャック」ハードカバー、「スケバン刑事」文庫本などなど、おびただしい数の漫画に囲まれて育ちました。

小学校のころにそれらを読み、自我が目覚めてからは月刊誌を「なかよし」、「りぼん」、「マーガレット」、「少コミ」、「花とゆめ」の順に渡り歩きました。
姉がいたんですが、姉は少年誌系の漫画をよく仕入れてましたね。
お互い交換して読んだりしていました。

14歳のころ、はじめて漫画を描いて投稿しました。
わたしは描くところまでしか想像できてなかったのですが、姉が送信・返信用の封筒と切手を用意してくれて、原稿が折れないよう中にボール紙を入れてくれました。
締め切りの日はたしか夏休みの部活のある日だったと思います。
学校で先生に許可をもらって、教室で仕上げ作業をさせてもらいました。
部活の仲間がときどき教室へ応援に来てくれました。
当日消印有効で、3時ぎりぎりに学校のとなりの郵便局に持ち込んで、無事送付できたのを覚えています。

いろんなひとに助けられた初投稿でした。
アテナ新人賞、2次審査通過が結果でした。

2次審査を通過すると当時は賞金1万円がでたんですね。
嬉しくてお世話になった方々にお知らせしに行ったりしました。
そのときは、「わたしはいつか漫画を描いて生きていくんだ!」と思っていました。


高校に入って、思いのほか進学校だったため勉強に専念せざるを得なくなりました。
毎週のように模試があり、定期考査は50点未満は赤点、部活もやってましたが勉強のために辞めました。
一度だけ、高校在学中に漫画を投稿しました。
箸にも棒にもかかりませんでした。
「夢では食っていけないから、勉強しなきゃ」と思いました。


大学に入って、遊びで描いた漫画を友人に見せたらとても褒められました。
漫画描いてるなんて知られるのが恥ずかしいと思っていましたが、意外と描いている子がいることに気づきました。
でもわたしは、そのときにはすっかり「わたしも漫画描いてるんです!」と大きな声では言えないようになっていました。
本気じゃないの、ただね、遊びでね、描いてみただけ…

しかし漫画を褒めてくれた大学の友人が目の前で漫画家デビューをしたとき、これまでに無いくらい悔しいと思いました。
私も本当は、ずっとずっと、そのポジションに憧れていた。

大学4年のとき小学館の漫画賞に応募しました。
主人公の女の子の好きな男の子は、主人公の親友が好きで、恋と友情の間で揺れ動き、最終的には失恋してもまた立ち上がるという内容の少女漫画でした。
最終選考まで残りました。
2作落とされたらしいんですが、そのうちの1作でした。

初めて担当さんがつきました。
嬉しかったです。
大学構内のFAXで原稿のやりとりをして、少しだけ優越感に浸りました。

何度か企画のやりとりをしていましたが、その担当さんから部署異動になると告げられました。
引き継ぎはしておくからと言われましたが、まあ「時間切れ」ということだったんじゃないかと思います。
その後一度も引き継ぎ担当者からの連絡はありませんでした。


就職しました。
もう漫画は諦めて、それ以外の道を精一杯追求しようと思いました。
就職のとき、とても恥ずかしかったですが正直に漫画を描いていたことを話しました。
意外にも、職場ではそれを個性と認めてくれました。
会社のチラシのデザインに携わる機会もありました。
漫画は完全にやめようと思ったのに、少しだけ、また描いてみたくなりました。

結婚が決まり、会社を辞めて引っ越しをすることになりました。
いろいろ区切りかなと思っていた時期でしたが、このとき投降した漫画が月例賞の下のほうに入りました。
諦めるな、ということなのかな、と思いました。


つづきます('ω')ノ

わたしの好きを詰め込んだマンガですが、届いてくれることを願って。応援いただけると本当に嬉しいです。