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まだまにあう、母に手紙を書きました


母に手紙を書きました

認知症がすすんできた母の記憶があるうちに、
感謝を言葉にして届けたかったからです。

母と私は、同じ性質を持ち合わせていたため、
お互いに寄り添いたいと思いながらも、
反発してしまう同じ極をもった磁石のようでした。

何をやっても、わかりあえないのです。

母はどんな時も、
自分が正しいと思うことにしか興味がなく、
相手の気持ちを想像せず、ゆずらずつきすすみます。

子どもだった私は
気持ちをわかってもらえないさみしさと
心細さを感じてしまい心を閉ざしてしまいました。

あきらめに近いやるせない気持ちは、
いつしか甘えることをやめ、
自立する道を選ぶことになります。

当時の私は、
あらがえない業のようなものと戦っていました。


母の生い立ち

5人兄弟の長女だったせいか、
人一倍責任感が強くまじめな人でした。

母の人生が動き出したのは、
二番目の弟が中学を卒業すると同時に
大阪に出たいと言い出したことです。

祖父の言いつけで、
弟の夢をかなえるための
付き添いとして大阪に出てきます。

それは昭和39年に開催された
オリンピックの翌年の出来事です。
母にとっては青天の霹靂だったのです。

山梨の田舎から、親せきを頼って
大阪にでてきた母は見知らぬ土地で、
右も左もわからず、親せきが経営する
酒屋を手伝うことで生計を立てていました。
流されるままに時間が過ぎていきます。

そんな中、お見合いで父と出会い結婚をします。
料理人として修業してきた父は
お店を持ったばかりで、
二人は朝から晩まで働きづめです。

そして私が生まれた2年後に弟が生まれます。
弟は知的障害を持って生まれてきました。

障害を持った子を抱えて、
途方に暮れていたんでしょうか。
私の記憶にある母はいつも泣いていました。

そしていつしか強くなることを
選ぶようになったのかもしれない。

私たち家族は、弟を中心に生きることを覚悟します。弟が不自由なく人生を送れるように
見守ることを決めました。無言の総意です。


5年前に弟は亡くなりました。44才でした

さみしさはありますが、
彼の人生を見届けることができたという
安堵も正直なところありました。

それからというもの、母はしばらく体調をくずし入退院を繰り返します。
弟がいきる支えになっていたのでしょう。

そんな中、私は喪が明けるのを待って
結婚しました。

すでに48才になっていましたが
自分の人生を生きてみようと
前を向いて歩くことを決めます。

主人は温かい家庭に育った愛情深い人です。
彼と生活をしていくうちに
無理をしていた自分に気づけ、
できなかった子供時代を取りもどしていきます。

背伸びをして生きてきたんだなぁとふり返ることができました。

母との時間を取りもどす

母と離れたことで、一人の女性として
彼女の人生をみることができるようになり、
母の不器用さも寛容するのです。

母が思い描いてた家庭もきっと
笑顔に満ちあふれていたものに違いないのです。

まだ間に合う、いましかできない、
笑顔にしてあげたいと、思いがこみ上げてきます。

今私ができることは、母の気もちに寄り添い、
とにかく話を聞くこと、笑ってもらえること、
安心してもらうことを最優先に残された時間を
過ごすことです。

埋めれなかったすき間を
私自身の手でパズルのピースを埋めるように
確認しながら愛情を渡していくのです。

手紙はそんな私の覚悟であり第一歩です。

生んでくれてありがとう。
過去が1分1秒ちがっていても、
今の幸せには、たどり着けなっかた。

今となってはすべてがありがたいことだった。
すこし照れくさいですが感謝を言葉にします。

すがすがしい気持ちでいっぱいになりました。

最後まで読んで頂きありがとうございます。
書くことで気もちを整理できました。
母との時間を大切にします。













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