見出し画像

北米に暮らして20年-最初の一歩編

2001年9月2日に東京からモントリオールに引っ越しました。日本を出てしまってから20年になります。私は大学進学を機に兵庫県から東京に出て行って、6年間東京で暮らしていました。東京での暮らしが気に入っていて、できればこのペースの暮らしがずっと続けばいいなと思っていたので、自分から海外へ移住しようと決意したわけではないのです。大学在学中にバイト先のイギリス人弁護士のホームパーティーで知り合ったカナダ人男性と結婚したので、彼がMBAを取ることになってそれについて行くことになったのがきっかけでした。本当はずっと東京で暮らしたかったので、当時はフラフィちゃんというグレーな毛並みが上品なウサギを溺愛していた私の提示した条件は、フラフィを空港係留の検疫なしに連れて行けること、そして2年後に東京に戻ることでした。

それが、モントリオールに移住して数ヶ月で喧嘩が多発、今思えば急な環境の変化によるストレスで私も彼も不安定になっていたことが分かるのですが、当時は若くて状況を客観視する心の余裕もなく、時差のこともあって相談できる友人も家族もおらず、夏に到着して冬には仲が険悪になり、1年後の夏にはフラフィと2人で家を出ることになってしまったのです。1年仕事をせずに貯金を崩しながらフランス語を大学で勉強していたため、家を出ると言っても貯金もすぐに底をつき、生活するために仕事を探さなくてはいけなくなりました。最初は酷く落ち込んで食欲もなく、公園に行こうと誘ってくれる友人がいたのにどうしてもベッドから出られず、仰向けのままこのまますっと体ごと消えてしまったら楽だな、どうにか透明になって消えてしまえないかな、と数日寝込んでしまったこともあります。ただ、何がきっかけであの鬱状態から仕事を探そうと思って行動できたのかはっきり思い出せないんですよね。落ち込みが激しくて寝たきりで天井を見つめてとても苦しかった記憶は鮮明にあって、20年経った今でも当時のことを思うと胃が重くなるくらいトラウマになっていますが、そこからどうやって起きたんだろう。。。多分、それは一人だけいた友人が心配してスーパーで食材を買って仕入れてくれたことだと思うのです。真っ暗な毎日の記憶の中で、スーパーの袋を一杯にして笑顔で訪ねてくれた友人ぼことを思い出すとパッと明るい気持ちになるので。あと自分はどうなってもフラフィには毎日餌をあげないとという義務感もありました。そして、これも背中を押すことになるのが、実家に戻ったら私の人生がスポイルされるという強い直感です。人生立ち行かない時に、はっきりと私に戻る場所はない、という現実を受け止めたこと。辛すぎて記憶も途切れ途切れですが、あの強烈なインスピレーションが鬱から抜け出す方向性を明示してくれました。あそこで、圧に負けてあの状態で実家に帰っていたら。。。たしかに勝負がついてしまっただろうな、と今となっても思います。お金も縁故もない土地で、もがき苦しんだけどあの時はあれでよかったんだ。

何とか最初の一歩を踏み出して、仕事を探そうと決心したのはしたのですが、どうやって仕事を探せばいいかも分からなかったので、当時は新聞の求人広告を見て履歴書を送ったり、レストランに履歴書を配って歩いたり、モントリオールの小さな日本コミュニティ用のオンライン掲示板を頼りに夏中必死で活動して、やっと見習いということでパキスタン人の経営する男性用床屋で掃除の仕事を見つけたのに、なんと見習い中は無給。もう一人見習いで来ていた台湾人の女の子は少なからず日雇いで給料を貰っていたので、それを励みに2週間ほど毎日通ったのですが、私には、大変なカルチャーショックの日々でした。今でも鮮明にイメージできるのは、その女の子がパキスタン人の頭をバリカンで勢いよく刈り込み、怒ったパキスタン人男性と大声で喧嘩して年老いて仙人のような風貌のオーナーがなだめに入った様子です。毛の長さが極端に不揃いな丸刈りになっていて、一部は丸刈り並みの短さだったので、激昂している姿も可笑しくて、でも本気で怒っているのが怖くてホウキ片手に見守っていました。

その事件のあった日、一緒に帰る途中にその子の希望でベーカリーに立ち寄って、私はお金がなかったので何も買わずにその子がチーズケーキを一個買うのに付き合って、当然ながらそれは家で食べるのだろうと思いきや、イートインコーナーもないベーカリーでチーズケーキを立ったまま鷲掴みで頬張る豪快な彼女。「両親はホワイトカラーの仕事につけって言ってるんだけど、私はこれでへっちゃら」と喋るのを頷きながら聞きつつその図太さにすごいなー、と感心していました。しかしながら、せっかく仲良くなったのに、その子はホワイトカラーというところをはにかみながら言った翌日に何と解雇されていました。前日に剃り込みを入れて客と喧嘩したのがいけなかったらしいです。向日葵みたいに明るい女の子だったので、とぼとぼ帰っていく姿が可哀想でした。異国の地、それに輪をかけた異文化のパキスタン人の床屋で私一人になってしまったうえ、勧められてもバリカンで頭を刈る勇気がなく無給のまま2週間だけ掃除だけ続けたため、所持金がとうとう50セントになって食品もトマトの缶で作ったパスタソースだけになってしまい、明日から電車の切符を買うお金もない切羽詰まった状況になりました。幸いフラフィはとりあえず夏の間は道端に大量にタンポポやクローバーが自然発生しているのをつんであげられる、でも明日からどうしようと意気消沈して帰宅した途端、留守電が入っていることに気付きました。電話主は桜という日本レストランの女性オーナーでした。早速折り返すと簡単に電話面接の後、明日から来てくれる?と聞かれた時の安堵と嬉しさ!思えばあの電話が海外での暮らしのヨチヨチ歩きの一歩だったんですね。レストランの簡単な皿洗いと食器を下げる係(バスガール)と聞いたら何だと思われるかもしれませんが、それまでパキスタン人の床屋で掃除しても無給だったので本当にありがたくて感謝でいっぱいでした。ちなみに日本では家庭教師とか塾の先生とか弁護士事務所でバイトの経験はあるものの、レストランで働いた経験がなかったので、ウエイトレスだと思って行ったら、最初はバスガールからと言われて、「大丈夫です!もちろん!早速行ってきます!バス停はどこですか?」と聞いてしまって「は?バスガールで大丈夫よね?」と不審顔で念を押されることに。バスガールはバスから客を誘導してくる役割と勘違いしたことに気付き、でももしバスガールが何か分からないと正直に聞いたら就職取り消しかもそれないと危惧して「エヘ、はい、もちろん大丈夫です」と言ってしまったものの、バスガールがバスから客を連れてこないんだったら一体何の仕事なんだろうと思って同じくバイトの方にこっそり聞いたら、「お皿を下げて食洗機まで持っていき、割れ物は手で洗う係」と教えてくれました。日本でもバスガールという職種があるのかわかりませんが、世間知らずなままよく一人で暮らしていけたよな、と今となっては思います。レストラン桜に雇っていただいたことはありがたいことでした。

桜のオーナーは大阪の北新地という場所でバーのママさんをされていたとかで、見たことのないような派手な化粧でした。美人でもない、不美人でもない、でも大きな珍しい花のような女性でした。3年ほど前にハワイのアラモアナショッピングセンターの白木屋で見かけた気がするのですが、人違いかなぁと躊躇していたらすーっと人混みに消えてしまって。また会えたら改めてお礼をお伝えしたいです。カナダの生活の一歩を踏み出せるようにしてくれた私の恩人です。ママさん、私を危機から救ってくれてありがとうございます。今思えば、ママさんは私の切羽詰まった様子を見て、困ってることを察知して雇ってくれたんだと思うのです。ママさんは北新地のバーで出逢ったカナダの小金持のパパさんと結婚してモントリオールの一等地で2軒レストランを経営されていて、ワーキングホリディでモントリオールにやってくる若い女性に雇用の機会を与えていたし、寿司職人やキッチンスタッフも入れると30名くらい従業員を抱えていた方でした。東京での贅沢に慣れていた私は、シフトのある日は無償で提供してくれる具なしの味噌汁とレタスにドレッシングをかけたものと白いご飯のランチが質素すぎて、感謝の気持ちよりも正直驚く気持ちの方が当時は大きかったです。日本から遠く離れて、若い日本人女性のグループがヨレヨレのハッピ(レストランのユニフォーム)を着て東京では見向きもしない質素な食事をありがたがって食べているなんて。

先行きも計画もないままスタートしたカナダの一人暮らしですが、それからレストランのバイトを掛け持ちしつつ、事務職のバイトも経験して何とか食い繋いだ混沌の4年後には領事館で職を得て私と動物たちで安定した生活営むことができるようになりました。フラフィはバディという友人の黒うさぎを得て、2匹とも2007年まで10年長生きしました。2004年から2008年にかけて合計4匹の猫を引き取って、猫との所帯を持つこともできました。写真はその4匹です。2011年には2度目の結婚でニューヨークに引っ越しました。それはまた後日記録するとして。。。

20年経って思い返してみると、失ったものもとてもとても大きくて、日本に根を張ってずっと暮らしていたらこうなっていただろうか、ああなっていただろうか、と想像することも難しいくらい、遠いところまで来てしまいました。日本の女性誌をパラパラめくるとキラキラで別世界のようです。もちろん日々の暮らしは雑誌の世界とは別とわかりつつも、日本にいたら私もこういう洗練された豊かな暮らしができていたたのかなぁ、もっと人の輪に入って賑やかにきらせたのかなぁ、と少しだけ寂しくなることもあります。帰ろうと思えば日本に帰る機会はというよりは危機が20年で3回ありましたが、実家に戻るつもりは一切なかったので、真剣に検討することなく流れました。

どっちがよかったかは分かりません。日本にいたら仕事のチャンスだってもっとあったかも知れない。言葉の壁もないので知り合いも出来易いですよね。私は20年経っても言葉の壁を感じます。特に仕事をしている時、私の表現は稚拙なとことがあったり、当然ながら外国語を話しているので発音やなんかは上手くなっても語彙力では劣ります。

今はニューヨークから仕事の都合でノースカロライナに越して1年経ちます。仕事は長時間労働で結構大変ですが、カナダと違いアメリカでは努力すれば昇進して給与がたしかに上がっていくことが励みです。私は10年間人の2倍働いてアメリカでは最初に得た事務職から4段階昇進して年収が5倍近くになりました。日本の会社ではあんまりないことかも知れません。でも、長時間労働でストレス溜まりすぎて辞めたくなることも多々あります。お給料は低くても日々の生活を丁寧に楽しむのと、働いて好きなものを買える暮らしどっちがいいか。モントリオールでは前者の暮らしでした。今は後者の暮らしです。といっても、物欲は本と犬猫関連グッズくらいなので、すごい大金を使っているわけではないです。

お金がない時にはお金があればなーと切実に願い、ある程度お金ができたら、暇な時間があればなー、と願い。庶民の私は日本でも庶民、海外でも庶民。海外で20年経ってもそれは変わらないようです。私は自ら夢を追って海外に出ていたわけでもありません。そして残った理由も帰る場所がない、という決して積極的ではない理由でした。日本で成功している知り合いが別のもっと成功している著名な方とのディナーに呼んでくれたことがあるのですが、「あなたみたいな普通の人は何の仕事をしているの」と質問されて、そんな風に考えたことがなかったのでショックを受けたことがあります。そういえば、確かに普通の人として会社勤めしてるだけだ、と。海外に住んでいること自体は特別な才能ではないし、普通の人でも移住して普通の暮らしを営めます。そこで浮き草のような生活になるか、コミュニティに根を張って成功していくかは本人のやる気と運と努力次第なんでしょうね。根を張れる人はバイタリティが人一倍ある上に社交性があったり、もしくは本人が才能に溢れる人で日本でも著名だったり、世界で通用するスキルがあったりしてどこに行っても人が寄ってくる場合。私の場合は4歳の頃から動物と読書を心から愛している内向的性格なので、海外でもかろうじて会社を通じて社会と繋がる浮き草のような存在ですが、動物たちと楽しく暮らした最初の20年は回顧すれば確かにどう転んでもどう起きても私らしい生き方です。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?