見出し画像

癒えるということ

私の原記憶のひとつに、自分が顔から白い布ですっぽり覆った服装をした何千人もの群衆に棒のようなものの先に載せられて、宙高く担がれ、嬉々として彼らのために生贄になる、というものがある。

まだ言葉もままならないような2、3歳の頃から幼稚園に差し掛かるまで、何度もその映像は眠りに落ちるような時にイメージとなって脳裏に浮かんだ。

私はそのイメージを思い浮かべると、自分が生贄になるにも関わらず、選ばれし者として大変嬉しかったのを覚えている。

この世に生まれて何よりも大切なことが「自分を生きる」ことだとすれば、私は物心もつかない頃からそれに反する方向に向かっていたのであって、その後の人生の「生き辛さ」をすでに自分の中に種子として持っていた。

47歳にもなって、自分いう感覚をちょっとずつ掴めるようになってくると、あんなに小さくてまだ無垢な自分の中にも、病的というか、自分の生命を輝かすのとは逆の何かが発芽していたことに畏れを抱く。

あんなに小さい頃からすでに病んでいたのだ。

私が癒えるのは、あのイメージの元型となるものから癒えていくことなのだと思う。

あまりにも根深くて、ハッキリ言って意識的にどうこう出来るような問題でもない。

人の為になると、ほんのちょっとのことでも即席で嬉しい気持ちに満たされるけれど、ほんとうに人のためになるというのは、自分の特性を大切に育てて磨きあげ、それを提供して世の中に参加することなのだと今は理解している。

自分の特性やなんかは無視して、あと先考えずにとりあえず自分の身を呈すること、それを選ばれし者の証だと取り違えて、即効性のある高揚感を得ることに酔ってしまうと、一番大切な「生命を自分という存在を通して輝かすこと」が疎かになってしまう。

私の場合は、癒るのは、根っこのところで簡単な高揚感を「生きるよろこび」と取り違えてしまったところからリハビリしていくようなことが必要で、それは一瞬で治るとかそういうものでもなくて、毎日の暮らしで自分の声を聞きながら、社会のなかで着地点を見出しつつ生きていくようなことで結果としてついてくるようなものなのかも、と今は考えている。

いい気分で生きるとか、上機嫌でいることとか、波動が高いとかそういう状態も、それは日々の暮らしの姿勢、そしてその積み重ねの副産物で、自分を顧みず、他者の顔色を気にして生きている間は、良い気分を継続させるとか波動をどうこうすると言っても、きっと難しいだろうと思う。

自分を生きるというチェレンジをしていると、生きる力とか意欲がみなぎってきて、結果として良い気分でいたり、波動が高いという状態になっていると考えるのが理にかなっているような気がしている。

今癒えました!今からはもう大丈夫です!というようなことでもなくて、もっと根深いところから何かが少しずつ動いて、少しずつ自分を回復していって、振り返れば道が出来ていたとか、もっと気長に構えていれば大丈夫なのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?