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自分の当たり前の感覚の調整

一昨日だったかな、会社のメールに定期的に届くウェルネスがどうのこうの、という福利厚生のメッセージに一瞬目が釘付けになった。

もしかして、こういうメッセージを即削除せずに読んで、人生を楽しむための参考にしているような人もきっといるんだろうな、とふと想像したからだ。

セルフケアを始めて3年と3ヶ月ほど経った。全くの異質なコンセプトだった「自分を愛する」とか「自分を大切にする」も理解が進んだ。

自分でも最近は少しずつ外の世界に出て、自然の中を散策したりして楽しみを感じることができるようになってきた。

セルフケアを開始してからやや低めのニュートラルな感じで日々を送っていたけど、少しずつ「喜び」とか「楽しみ」も増えてきた。もちろん怒ることもあれば心配事もあるけど、それにずーっと心を奪われていない。

人生とは苦しくて辛いもの、と疑いもなく信じてきたので、何か上手くいくことがあっても、上手い話すぎるとか、幸せは続かないとかそうやって元の不幸な状態にすぐ戻していた。

YouTubeのインタビューでアメリカで著名なTVキャスターの家族が「父(著名なキャスター)が引退して癌が発見されるまで私たち家族には何も大きな問題は起きず、平和に幸せに暮らしてきた」と語っていた。子供と言っても40歳を過ぎていて、平和な日々が当たり前のところに、父の病気が青天霹靂で大変ショックを受けた様子が見受けられた。

私はその家族が大した問題もなく平和に幸せに過ごした時期の長さに驚いた。私の体験とは真逆と言っていいだろう。

自分では生まれてから当たり前だったから分からなかっただけで、ダークな世界の住人として似たり寄ったりな境遇の人たちと争いながら半世紀ほど生きてきたんだな、なんて思う。

結婚とか子供の誕生とか何がそんなにめでたいのか理解の圏外にあったけど、人生を快/喜ばしいと捉える姿勢が根底にあるならば、人が結婚して家庭を持ってそこに子供ができて、家族と共に基本的には幸せな人生を歩むのって確かにめでたいな、と分かる。

旅行に出かけたり、美味しいものを食べたり、愛する家族がいてペットがいて、地域社会とか会社とか、何重にもコミュニティがあって、自分が没頭できる仕事とか趣味があって、とか。

そこに日々の雑事があったり、その時その時に必要な感情の起伏が起きつつも、基本的には「生きていることが快」という感覚が言語化しないまでも基本的に備わっている人たちもいるということ、寧ろ、そういう人たちの方が実は多いのかも。

もしかして生きることって基本的には喜びというか、良いこと(?)、だったのでは? 今まで恐怖とか不安とか罪悪感とか怒りとか復讐心とかに雁字搦めになって、感情も怒り以外は感じ取れず、心の動きもあんまりなかった生き方しか知らずに「こんなのがいつまで続くんだろう」と絶望しながらも仕方なくサバイブしてきたけど、実は、四苦八苦せずに、静かに満ち足りた日々を送っていけるのでは? と自分の感覚を改めて調整している。



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