見出し画像

Operating System と「いい気分」でいること

去年の夏、足の骨折の原因となったHVACシステム(セントラルヒーティングのことだと思います)が今日また故障して、猛暑なので家の中が暑いです。

月々定額料を払ってメンテナンスしてもらっているのに、なんたることか。

不都合なんですけど、修理サービスがいつ来てくれるかの連絡を待っている間に、気付いたのは、こういうことが起きて腹が立ったりやなんかしても、もっと奥深くに自分の基本OSとしてあるべき「生きていることが基本的に快であるか、生きていることに感謝しているか」というのって影響を受けないのだということ。

エアコンが壊れて、今日は36度にもなっているのに、暑い!不便だなぁ、という残念な気持ちにはなっても、「この前メンテにきたばっかりなのに! 許せない!」と気分を著しく害してしまって、それ以外は何もできないような状態にはならないことです。

不具合が生じたら不便だし、修理を依頼してもらうまでは暑さを我慢しないといけなくて、その間は肉体的に不快であるのは当たり前で、私が今思うのは、そういう時にでも「いい気分」でいるっていうのは、つまりはもっと奥深いレベルにあって、普段は自分では気づくことのない「生きる姿勢」については影響がない、ということなのではないのかな、ということです。

家の中が32度とかになって、体が不快なのに、感情が「嬉しい」とか「いい気分」なんていう方がおかしいのであって、引き寄せとか波動を整えるって私は今まではそんな時でもエアコンが壊れて家が暑いこと自体に何かいいことを探して「いい気分」でいなければいけないような気がしてたんですけど、今の私の理解では、それは多分違うな、ということです。

家の中が暑くても、これは修理の人が来たら直るんだから、とりあえず猫と犬の様子は見つつ、我慢しよう、とは思っていますが。

ただし、他方で、以前の自分のように、このことが人生における一大事で、エアコンの故障だけなのに何か酷く気分が損なわれるとか、カスタマーサポートの人に強い口調で抗議してしまうほど腹が立つというようなことにもならなくて、まぁ、明日の朝に修理に来てくれるって言ってるんだから冷たいスイカでも食べて我慢するか、そして犬たちをお風呂に入れてプールごっこでもしようかな、とかそんな風に受け止めています。

自分が生きていること自体に感謝の気持ちが小さくても芽生えてきているので、そういうのって多分OSの取り替えくらい大きなことで、基本的に深いところでは何があっても「生きてるのって結構楽しいじゃん」というような姿勢があり、それ以外な雑事で感情が揺れていくのは当たり前なんだ、ということ。

故障に気づいて、また?嫌だ!とイラっとくるのって生きていたら当然だよな、と思ったのでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?