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【創作小説】クエスチョン・アーク|Ep.3 Rose

今日はとても良い天気です。こんな天気のとき――雲がなくて、空がどこまでも真っ青なとき――は、どうしてか救われたような気分になります。
風は強いのですが、もうすぐ来る春のためのお掃除のようで、悪い気はしないのです。

この便箋も残すところあと2枚となりました。少しの装飾でも気分を変えるのに役立つというのは新たな発見です。創作が捗るのは嬉しいものですね。
創作のお供にと、私は今こんな昼下がりに、ピアノとヴィオラのためのノクターンを聞いているところです。
バッハの旋律を朝に聞くのはどんなものなのでしょうか・・・近いうちに試してみようと思います。

さて、物語を続けましょう。
私はヴィオラに、ただ名前を訊かれました。しかし、次の瞬間にはただそれだけのことに愕然とするのです・・・なぜなら、私は自分の名前を失ってしまっていたのですから。
呆然として花瓶を見つめることしかできない私に、彼は穏やかな調子で、いいんだよ、そういうこともあるものさ、と声をかけてくれました。
「絶望しているの?」
「それは・・・そうでしょう?だって、自分の名前を忘れるなんてこと、あるわけがないわ」
「さあ、それはどうかな。持っていると思っているもので、失くさないものなんて、はたしてあると思う?」
「・・・そんな果てしのない質問をされたって、考える気にもならないわ」
「そうだね」
彼はフフフと笑いながら、指先で私のガーベラを弄んでいました。
「・・・私が探しているのは、名前?」
「いや」
それに対しては、即答でした。
「名前ではないよ」
「・・・どうして答えを教えてくれないの?私、急いでいるのよ」
私の声には焦燥感と苛立ちが滲んでいましたが、彼はそんなことは気にも留めないのです。相変わらずの飄々とした態度で、私の方へからかうような視線を遣ってきます。
「自分の名前も失くすほどの出来事の後に、急ぐような用事なんてあるのかな」
「わからないわ。でも、なんだか落ち着かなくて・・・早くそれを見つけて、早く手に入れたいものがあるのよ」
そうなんだね、と彼は穏やかに呼吸を一つ置きました。
「・・・でも生憎、僕はブロッチの引き合わせであなたと出会っただけで、あなたの探し物が何か、ということまでは知らないんだ。だから、それがどこにあるのかも、どのくらいで出会えるものなのかも、僕にはわからないんだよ」
それを聞いた途端、私の中の微かな希望の灯が、ぐらりと揺らいだ気がしました。
「フフフ・・・また絶望した?」
楽しそうな彼の指先では、曲げられたガーベラがびよんと立ち直りました。
「ねぇ・・・私をからかって、面白がってるんじゃないわよね?」
「そんなこと、思ってもいないよ」
私は途方に暮れて、椅子の背もたれに深く寄りかかりました。視線が足元に落ちて漂い始め、深いため息が口からこぼれだしたところで、私は自分が思いのほか、ひどく疲れていることに気がつきました。
「・・・重たいわ」
「重そうだね」
「どうしてかしら・・・欲しいもののことを考えると、べたっとして・・・すごく体が重たくなるの」
彼はしばらく私の顔を見ていて、それはしんどそうだね、と言いました。
「だからなのかな・・・あなたは少しうつむきがちだし・・・初めてあなたを見たとき、毒気があるな、と思ったんだ」
毒気、という言葉にピクリとして、私は彼の方に横目を遣りました。
「あなたの肌は抜けるように白いし、血色の個性は少し青みがかっていて・・・なんとなく、クリスマス・ローズみたいで・・・それはそれで美しいんだけどね」
呟くように言いながら、彼は次の瞬間、何か閃いたような顔をして私を見ました。
「せっかくだし、ニックネームを決めるのはどうかな?」
「・・・あまり興味がないけど・・・候補があるなら聞いておくわ」
そう返すと、ヴィオラは楽し気に頬を緩ませました。
「シンプルにローズ・・・もしくは、別称でニゲルというのもあるよ」
提案された2つの名前はどちらも私にとって馴染みがなく、違和感を呼び起こすものでしたが、せっかく選ぶことができるのなら非現実的なものを、という考えの下で、ニゲルと呼ばれることを選びました。
「・・・どうしても呼びたくなったら、ニゲルと呼んでくれてもいいわ」
私の高飛車な返事にも気を悪くすることなく、彼はおどけたように肩をすくめてみせました。
「わかったよ。提案を呑んでくれてありがとう」

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1,684字

現実と虚構の狭間で見るイメージを紡ぐ、哲学系幻想小説。

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