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“平成最後の夏”だから、「今日、終戦記念日ですね」って言ってみようと思う

平成最後の夏、らしい。

ということはつまり、平成最後の終戦記念日、でもある。そこでちょっとだけ、平成最後の終戦記念日、について考えてみた。なぜなら、なんか、けっきょくそれがどういうことかわかってないから。


私たちは「戦争を知らない世代は」とか少し非難気味に言われることもあるけど、でも、けっこう多くの「戦争を知らない世代」が、戦争について、それなりに考えていると思う。

『この世界の片隅に』『火垂るの墓』『日本のいちばん長い日』『永遠のゼロ』『野火』『はだしのゲン』……あげたらキリがないくらいいろんな映画やマンガやアニメがある。それに、全然関係ない作品でもふっと戦争の話題が出てきたりする。意識してなくても、小さな頃からどこかで見てきた。

個人差はあるし、知識差もあるけど、映画を見たり本を読んだり話を聞いたり、けっこういろんな場所で触れてきたと思う。広島と長崎に原爆が落ちたことも知ってるし、原爆ドームの形もなんとなく思い浮かぶし、沖縄が今もいろいろニュースになっていることにも気づいてるし、カミカゼとか特攻隊とかひめゆりとか聞いたことある。まだね、近所のおばあちゃんは「あの頃はね」と思い出してくれる人もいる。

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そして今年は、平成最後の夏、で、平成最後の終戦記念日、らしい。

「平成最後」って。もうね、ポップだね。キャッチコピーだね。イベント化されてるね。特別感出そうとしてくるね。

でも夏はべつに特別なことじゃなくて、来年も5年後も200年後も夏はやってくるし、終戦記念日もきっとやってくる。そしてそんなことみんな知ってる。でもわざわざ呼んでる、“平成最後の夏”って。

もし“平成最後”という冠に注目してみれば。例えば“平成最初”をつくった「平成おじさん」と呼ばれる平成の名付け親、小渕恵三元首相を思い返すとする。彼は沖縄の進行対策に力を入れ、二千円札(懐かしい!たまに見る!まだ使えるんだねレアキャラ!)に沖縄の首里城を載せたり、沖縄サミットを開催したりした。その行動は「沖縄は日本の一部ですからねー」と言っていたようだった……らしい。(それだって私はまだ子どもで、なんにも実感なんてない。全部後から聞いたことだ。それでも、なんとなくどこかで聞いて、うすらぼんやりと知っている。そして調べて、知ることができる)。そんな小渕元首相のことを、この日を機会に思い出したりすることは、できる。

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思うこと、考えること、知ること、思い出すこと、はできる。

むずかしいのは、うすぼんやりした知識やイメージが入ってる自分の頭と、自分の体が、結びつかないこと。「戦争ってこんな感じらしいよー」とは思えても、たとえば「おまえも、それやるんやで」と言われたって自分の明日だとは思えない。中学のマラソン大会だって受験勉強だって、入学したての頃は「先輩たちが大変そー」って思って、実際自分の番になって「うがー、たるいー」と思って、で本当の実際の実際に走り始めて走るうちに「も、つらい、逃げたい、なんでこんなことやらなきゃならないのつらい苦しい」ってなってそれでも走った。ぜったい大変だろうこと、前から “わかってた” なのに。

わかってたって、想像できてたって、やってみて苦しくなって気持ち悪くならないと「やだーやらなきゃよかったー」って思えない気がする。それは怖いことだ。こんなに「戦争は大変だ」って “わかってる” のに、多分わかってないことが、怖い、気がする。

なにが正解なんてわからないし、どうしたらいいかも不安だし、考えなきゃ考えなきゃって思っても考えるだけじゃなにも進まないんだろうなとも漠然と思っている。といって、じゃあ、動く? 具体的に? どうやって? ていうか、そもそもなにを?

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今年はね、平成最後の夏、で、平成最後の終戦記念日、らしい。

ねえ、それって意味あるの? ないの? なんなの?

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わからないことだらけだ。

そんな状態で、行動したり、選んだり、決めたりすることはできない。正直、なにもしなくていいならこのままなにもしたくないような気だってしてる。

でも。なにか。しないと。いけないかも。大変な時が来るかもしれない。


まずできることは、「対話すること」なんじゃないかと思う。

だって、知って、聞いて、調べて、考えることは、ぐじゅぐじゅ熟成するけど自分より外へは広がっていかない。せまい、自分の中だけでのこと。そしたらまずは、聞いて、話して、それについてまた聞いて、話して…………「対話すること」。声に出して話していると、ぐじゅぐじゅわだかまっている自分の中身がまとまってきたりする。そして対話をすることで、それを揉んだり固めたり、新しいスパイスをもらえたりする。もしかしたらその相手が私のいないところで私のぐじゅぐじゅを誰かに伝えて、違う形で揉まれて巡って、また私のところへポンと返ってきたりする。

「思考」と「行動」の間に、『対話』がある。

「一人」と「大勢」の間に、『対話』がある。

怖いから、不安だから、よくわかんないから、自信ないから、でもなんとかしたいから、まず『対話』しよう。一人で考えてるとループに陥ることもあるから『対話』しよう。恋愛も、仕事相手のパワハラも、将来の進路や、デートの行き先や、晩御飯のメニューだって、一人で考えて空回ってる時は失敗するまで気づかない。でも先に相談すれば。行動まではできなくても、声にすれば、自分の世界が誰かに世界に、誰かの世界が自分の世界に触れることができる。『対話』になる、かもしれない。

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今年はね、平成最後の夏、で、平成最後の終戦記念日、らしい。

それに意味があるのかなんてわからない。ただ言いやすいから誰かがキャッチコピー的に言っていて、意味なんてないかもしれないし、でも勝手に意味をつけたり思い込んだりしてもいいのかもしれない。

私にとってはべつに特別なことじゃなくて、来年も5年後も200年後も夏はやってくるし、終戦記念日もきっとやってくる。平成の前には昭和もあったけど、とくに昭和に特別感があるわけじゃないから、きっと平成も特別じゃなくなる。夏だって、まだかなりしばらくは毎年暑い。

平成最後の夏は、2018年の夏で、私にとっては○○歳の夏で、去年の夏と来年の夏の間にある夏。

意味なんてない。だから、今日8月15日に顔を合わせた人には「今日、平成最後の終戦記念日ですね」ではなく「今日、終戦記念日ですね」って言ってみようかな。そうして、『対話』ができたらいいなと思う。

                            おわり。

※追記:「平成って、唯一戦争がなかった時代なんだよね。そう考えると「平成最後の終戦記念日」の意味がまた少し感慨深く思えてくるのよね。」とコメントいただき、ぐさあーときました。ずっと、そういう時代であってほしい……

(うわぁと勢いで書いてしまった。今の時間も、これから寝て。起きてからも、日本は終戦記念日。毎年、毎年。きっと200年後も、その先も。お休みなさい。2時。)


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