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産んでない、出ただけ
「わたしたちなんて、ただの管(くだ)よ!」
と言ったのは、どなたか小説家の出産エッセイだったと記憶している。
人間は、口からいれて、お尻からだす、管。
通り道のルートとしてはたしかにそうなんだけれども、「とはいえ出てくるまでにいろいろ起きているわけで、それが重要だよなぁ」と思いたい気持ちもどこかにあったかもしれない。
でも今、子どもの尻からシメジやらモヤシやらが食べたときの姿で出てくるのを見ると、「まさに管やな」という感想になる。オムツを剥いて、お尻の穴に刺さったモヤシをずるりと引っこ抜きながら、"入って出てきただけ"のモヤシの旅路を想う。
出産をした時もそうだった。
看護師さんの「産まれましたよー」という声で、「あ、出たんだな」と知った。無痛分娩だったのでなんの感覚もない。まさに"なんか出ただけ"だった。
看護師さんが「元気な子ですよー!」と言って手に持ったタオルと一緒に隣室に消えたので、(え、なんの声も聞こえないけど?生きてた?)とぽかんとしたのだった。
その後、個室に移動したものの長いあいだ子どもが連れて来られず、(声も聞こえなかったからもしかして…)とぼんやりしているうちに、小さな透明のケースに乗せられた、小さな赤いしわくちゃの生きものが運ばれてきた。
(おお、想像よりも、猿というよりおじいちゃんだな)
そんなふうに思いながら、痛みも実感もないまま子どもを抱いた。翌日からは会陰切開の痛みに呻きながら、ヒマすぎてベッドの上で仕事を始めた。
それから、今に至ります。
ちいさくまだ不確かな生き物と暮らしながら、その生き物が自分が産んだという実感も自分の子どもだという感覚もなく、自分とは違うひとつの命だとして接する日々。
いつかテレビでとあるコメンテーターが「子どもは親とは別の個体」だと発言して炎上していたけれど、まったく、かんぜんに、別の個体である。この子はわたしとは違う人間としてこの世に存在している。別の個体だから、尊重し、対等に、顔を向き合わせようと思えている。
産んだ実感も、自分の子どもだという感覚もない。
わたしの身体を通って出てきたことは間違いないらしいが、たとえこの子がわたしの子どもではなかったとしても、一人の、自分とは違う人間だとして、尊重され個別の権利を持つ、ひとりの存在なのだという事実が、目の前にある。
その事実をしっかりと握ってしまったこの手が、目の前にある。
握りしめてしまったからにはこの手は、「責任」や「おせっかい」という大義名分で別の個体の境界線を侵害することがあたりまえだった日本の「家族」という集団にNOを突き付けていくしかない。
産んだ実感も、自分の子どもだという感覚もない。この子の生はこの子のもので、わたしのものではない。
この子が自分の人生を自分で選択し獲得していくための通り道としての、わたしは管(くだ)である。