アメリカで夢を叶えた友人の話(3)

「助けてちょうだい(I need your help!!)」こんな一文で始まるメールをNさんからもらったのは、彼女が大学に学士入学してまだ1ヶ月ぐらいの時。教師からアカハラ(というか、もっと単純なパワハラ)を受けて困惑しているという内容でした。必須の4科目中2科目を担当するその教師は、彼女の話ではプロ意識に欠け、授業中に電話がかかってくれば応答してしまう、自分の都合で授業を早く切り上げる、などの態度を取る一方で、学生との約束を守らず、その日の気分で学生を批判したり課題を増やしたりする。彼女と同意見のクラスメートとも相談し、その教師に手紙を書いたが、火に油を注ぐ結果になり、嫌がらせとしか思えない不必要な課題を押し付けてきた。必須科目なので取らざるを得ずストレスが溜まる一方。学長に訴えようか迷っているというものでした。
教師と学生の衝突や対立はよくある話です。私は当時カナダで修士課程をもうすぐ終える段階まで来ていましたが、13名のクラスメート中一人は担当教官との衝突で学校を辞めてしまいました。とても優秀な学生だと聞いていたのですが。更に二人は担当教官を途中で変更しました。そのうちの一人が私でした。1年目の秋学期が終わる頃に別の担当教官を探すか退学するかの選択を迫られました。私の場合は、担当教官よりは私の方に非があったと思います。大学院というものを舐めていて、自分が研究したいテーマがはっきりと決まっていない状態で入学してしまい、適当に授業に出ていれば何とか卒業できるだろうなどと甘い考えでフワフワした気持ちで毎日を過ごしていました。JICAのシニアボランティアの日本語教師として途上国で働く、というのが何となく持っていた目標で、海外で働く日本語教師を取材して回りその実態と将来展望のようなテーマで修士論文が書けるんじゃないかと漠然と考えていました。ところが日本語教育専門の担当教官から「そんなものは調査研究ではなく単なるエッセイだ。修士論文というのはもっとアカデミックでなければならない」と却下されました。そもそも、人にインタビューや取材をするには倫理委員会の許可をもらわなければならないが、私の調査はプライベートに踏み込むことになるので許可を得ることは難しい。それより文献調査を中心にして、例えば日本語におけるカタカナ語の役割のようなテーマにしてはどうか、といった助言を受けました。そんなテーマには食指が動かず、担当教官からすれば少しも言うことを聞かない生徒、私からすれば興味のないテーマを押し付けてくる先生、という対立構造が生まれてしまい、遂には教官の方から私の担当を降りると言われました。その時に私の息子と同い年の日本人のクラスメートから言われた言葉が忘れられません。彼女はとても大人でした。「お互いに言いたいことはあるでしょう。どちらか一方だけが正しいということは無いと思う。でも、絶対的な権威である教師に逆らって学校を辞めるほど馬鹿気たことはない。自分の方に理があると思っても、その気持ちを抑えて教師の助言に従う。卒業するまでは。」確かにその通り。新しい担当教官が見つかるまでに半年も無駄にしました。しかもその教官は元の教官と親しかったので、しぶしぶ私を引き受けはしたけれど、最後まで心を許してはくれませんでした。ともかくその教官の下で全く想像もしていなかったテーマで修士論文を書き、もうすぐoral defense (口頭試問)が行われる予定になっていました。
そんな私の経緯もあったので、Nさんには「学長に訴えたりすると収拾がつかなくなるかもしれないから、できる限り我慢して単位を取ることだけに集中した方がいいんじゃないのかしら」と返事をしました。
それから2週間。その問題教師がクラス全員の前で謝ったというメールが彼女から来ました。でもその後も教師の態度は改まらないと。どうしてそうなったのか、詳しいことは分かりませんでしたが、「ともかく、もうこの件はお終いにする。卒業することだけを考えて勉強する。それにしてもこの街がすっかり嫌になった。早くこの街を出なければ」と書いてありました。
でも、でも・・・。結局、今ではニューヨークを出る気は全くないようです。それだけ毎日が充実しているのでしょう。
その後、大学での授業にも慣れ、友達が増えるに従い悩みは少なくなったようで、2年で学士号を取得。そのまま大学院に進学。修士課程2年目にはインターンとして救急病院で働き、2015年秋に卒業し、永住権も取得しました。そして漸くルームシェアではなく、一人でアパートを借りて暮らし始めました。
ただ、それからすぐにフルタイムの職が見つかった訳ではありません。2016年4月ごろまでは旅行したり(お母さんと日本にも来ました)、それまで会えなかった友達に会ったりで「休暇」を楽しみ、それから仕事を探し始めましたが、小児病院で働くようになったのは2017年2月。でもそれまで焦っている様子はありませんでした。じっくりと職探しをしたのでしょう。その後は順調にキャリアを積み上げているようです。
これが私の友人の物語。挫折しそうになりながらも決して逃げ出さず、諦めず、夢を叶えました。私はと言えば、修士から博士課程に進み博士号を取得しながら、生来の性格の弱さが災いし、環境に流されて言い訳しながら逃げてばかりで中途半端な人生を送ってきました。今更彼女に刺激されて頑張れる歳でもなく、せめて、自分の夢を実現するために一歩踏み出そうとしている若い人たちに彼女の物語を伝えたいと思いました。何らかの教訓を引き出せるとしたら、目標を達成するまでは、どんなに苦しくても投げ出さないということでしょうか。夢を叶えるまでには時間がかかります。途中で諦めてしまったら勿体ない。そして、もう一つ。休みを取ることもままならず働きづめの日本に居るよりは世界に飛び出した方がいいかな、ということ。看護師さんに限らず、日本ではブラックな働かせ方をする企業のニュースをよく目にしますし、連続1週間の休みを取ることすら贅沢な印象を与えます。先日も不動産会社の若い営業の方と話をしていて、欧米など行ったこともない、休めないからと言ってました。それが果たして人間的な働き方なのか。私はついつい批判的になってしまいます。
特にアメリカは英語が通じるし懐の深い国です。日本で見えない壁にぶつかりストレスを溜めて悩んでいるのであれば、思い切ってアメリカに行ってみてはいかがでしょうか。私の長男も22年前アメリカに(逃げて)行きました。当時は無職で、日本に居続けたら結婚もできず中高年の引きこもりとして、今頃私共家族は「8050問題」に突入寸前だったかもしれません。アメリカでも紆余曲折がありましたが、少なくとも英語は母語並みに流暢に話せるようになり、結婚もできて、奥さんのおかげで永住権も取得し、今のところ幸せに暮らしています。
次回は、息子と結婚してくれた女性の話をしたいと考えています。彼女は日本のアニメと声優大好きな香港人。18歳でアメリカに渡り、コミュニティーカレッジのESL中級クラスからアメリカでの生活を始めました。そのクラスで息子と知り合いましたから、ずいぶん長い付き合いです。大学で経営学を専攻、大学院でMBA(経営学修士)を取得、会計事務所で働きながら一戸建てを購入、渡米から20年がかりで市民権を取得しました。彼女のケースでも、やはり夢を叶えるまでには時間がかかっているのです。


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