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パラリンピックで「シュート外すんじゃねぇ!」と叫んだ瞬間、対等だった言うお話

ラジオでいいお話があったので共有します。

パラリンピックが行われていますが、皆さんご覧になっています?私は、オリンピックもパラリンピックも、ほぼ見ないです。チャンネルかえる時にたまに映ったり、ニュースで流れるのを見るぐらいです。

私はこう言った偽善じみたものが嫌いです。数年前にNHK Eテレで「感動ポルノ」という言葉が紹介されて話題になりました。NHKは否定していますが、24時間テレビの真裏で放送され、間違いなく24時間テレビを批判していると思います。

私は偽善は嫌いですが、否定はしません。なぜなら、偽善であろうがそれで障害者への理解が広がり、よりよい社会になるのであればいいと思うからです。

例えば、24時間の募金の話。世の中には何万人も障害がある人がいて、募金したって全員を助けることはできないという人もいます。でもないよりはあった方が絶対にいいじゃないですか。募金しても100人にしか手助けできませんでした、としても、その100人に取ってみればすごくうれしいことだと思うんです。すごく意味があることだと思います。

また、芸能人を使って、企業がCMをして、そのお金を寄付すれば?という意見もあります。もちろんそれも分かります。でもね、芸能人や企業ができることって限りがあると思うんです。例えばね、ある会社が1000万円使うとしてね、それを寄付することもできます。でも、それは単発で終わり。来年は業績不振で寄付できないかも知れない。それだったら、偽善だと批判は承知でね、24時間テレビにお金を出して、「世の中の人に困っている人がいっぱい居てね、支援が必要なんですよ。だからみなんさんの協力をお願いします!」という方がより大きな金額、継続的な支援につながると思うんです。そう言うきっかけになると思うんです。

なので、偽善だからと言って否定する気はありません。ただ、私は偽善ができない。偽善をしようとしても、性格でぼろがでる。なので、偽善するにしても難しいなぁと思います。

パラリンピックもおなじで、パラリンピックなんて偽善だ、障害者を見世物にしてかわいそうだ、という意見があると思います。でもね、パラリンピックがなければ、障害について考えるきっかけってなかなかないと思うんです。

先日江戸川区の区役所に行ったときに、江戸川区出身でパラリンピックに出場する人の紹介がありました。あるとき突然障害を負って、それでも負けないで金メダルを目指して頑張ります、と言うお話が紹介されていました。そのお話を聞くと、さっきの話のように、偽善だなぁとか、障害を公表されてかわいそうだ、とも思うんですが、パラリンピックがなければ、偽善とかかわいそうとか思うこともない、知ることすらないと思うんです。パラリンピックがあるから、そう言う感想を持つわけだし、もしかしたら、誰かは「もっと障害について考えるべきだ」「もっと住みやすい社会にすべきだ」という考えを持つかも知れません。

パラリンピックというと、オリンピックのおまけみたいなイメージになっちゃいますが、スポーツの祭典という意味以上に、大きな存在意義があると思います。

前置きがながくなってすみません。ここからラジオを聞いたのお話です。

パラリンピックは障害の重さによって種目が分かれていて、22競技540種目あるそうです。オリンピックが33競技339種目ですから、おなじ競技でも多く別れていることが分かります。例えば、陸上競技・トラックの視覚障がいでは、伴走者が必要なT11、伴走者は必要な場合のみのT12、単独のT13というようにクラス分けされています。数字は小さいほうが障がいの程度が重くなっています。

この話だけでも、ひと言で障害者と言っても障害の重さにもいろいろあるんだと思います。また、いろんな障害があるんだと言うこともわかります。そうやって、障害に対する理解をすることで、どうすればより障害者も生活しやすい社会を作ることができるか考えることができると思います。

何年か前に障害者施設で障害者を殺害する事件があったじゃないですか。障害者は不幸だ、生きていても意味がない。だから殺したというのが加害者の言い分でした。でも、障害者が不幸なんてだれが決めたんですかね?あるいは、障害者が能力がないってだれが決めたんですか?どこかにそんな決まりがあるんですか?

例えばね、自分がガンになりました。末期がんです。もう死にそうです。お医者さんもさじを投げている。そのときにガンを治してくれる人があらわれました。でも医者じゃない。そのときに、医者ないから治療はしないといいますか?自分の病気を治してくれるのなら、医者じゃなくてもいいじゃないですか。看護師さんでも、宗教家でも、なんなら超能力者でも宇宙人でもいいじゃないですか。LGBTでも親の敵でも、自分を助けてくれる人ならだれでも良いと思います。(心情や宗教的な問題はあると思いますが)

おなじことが障害者にもいえて、例えば地球温暖化。人類が直面している大問題だと思うんです。それを解決できる方法を研究してついに発見しました。これで安心だ。となったときに、発明したのが障害者だったら、その研究はダメだといいますか?障害者にはその様な研究ができないっていいますか?勝手に障害者を下に見ていませんか?

前にも言ったように、障害があるのは背が高いとか低いとか、太っているとか痩せているとか、そう言った身体の特徴でしかないし、そう言う社会にしなければいけないと思うんですよ。もしかすると、例えば手足が思うように動かない、でも健常者以上に数学的な能力に長けている、記憶力がすごいと言う人が居て、ものすごい発明をするかもしれないじゃないですか。そう言う人が能力を思い切り発揮できる社会、それこそが今後の社会に必要だと思います。

それでね、またパラリンピックの話に戻るんですが、車椅子のバスケを見ていて、最初は障害があって大変だな、車椅子にのるだけでも大変なのにバスケットをするなんてすごいな、自分にはできないな・・・何てことを思っていたんですが、だんだん感情移入してきて、やっぱり日本に勝って欲しいから応援してるんです。でね、ある選手が決定的なチャンスでシュートを外したんです。そのときに「シュート外してるんじゃねーよ!」と思ったんです。これって日常生活じゃ考えられない話ですよね。

たとえば、まちを歩いていて、向こうから人が近づいてきた、ぶつかりそうになった。なんだ?と思ったら目の不自由な人だった。その人に対して「ぶつかりそうになったじゃないか!」って怒る人ってそうそういないと思うんですよ。まあ、心の中で思うことは仕方ないと思うんですけど口に出す人はないと思うんです。

もしパラリンピックじゃなくて車椅子バスケをしている人がいて、一生懸命にシュートの練習をしている、その人がシュートを外したとしても「よくがんばっていますね」と声かけると思うんです。これって、完全に上から目線ですよね?もしかしたら、自分とシュート対決したとして自分が負けたとしても、障害があるのに頑張っているなって思うと思うんですよ。ほんとはずかしい決めつけ。上から目線。

でもね、パラリンピックで応援していて「シュート外してるんじゃねえよ!」って思った瞬間って、上からでも下からでもなく、対等だとおもうんです。じゃなかったらそんなこと言わないでしょ。障害があってもなくてもおんなじ。「みんなおなじ、みんな違う。」それが人間なんです。

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