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【NPB】さよならノムさん。敢えて我がヤクルト監督時代を避けて振り返ることにします。【追悼】

もちろん、覚悟はできていた。
しかし、実際にそれが起きれば話は別だ。
ものすごい喪失感で仕事が手につかない。
令和2年2月11日、最近では珍しくなった飛び石連休の建国記念日に、偉大なるプロ野球監督野村克也が黄泉の国へ旅立った。
この現実を受け止めるまで、短くない時間がかかりそうだ。

打者野村、捕手野村の最盛期をおいらは知らない。
自分の父親よりも年上の野球選手、しかもテレビ中継のないパ・リーグを代表する選手の武勇伝を知る機会は、昭和の小学生にも稀だったからだ。

実際に野村克也がタダ者ではないと知ったのは、故に1973年の日本シリーズが最初だったと言っていい。
巨人V9最後の年で、阪急との死闘の印象が強く脳裏に刻まれた後にやってきた野村南海の姿は、正直、期待していた対戦カードではなかった。

それでもパ・リーグと言えば、この年から前後期制を導入し、不人気を何とか解消しようと躍起になっていたことは何となくわかっていた。
その期待の通り、南海は年間で言えば3位の勝率でありながらプレイオフで阪急を下して日本シリーズへ駒を進めた。
翌年日本一になるロッテも含め(昭和48年は年間で2位)、3強の構図をもっとうまく利用できればその後の展開も変わっていた、そんな年だったように思う。

南海は後に阪神へ移籍し、中西監督代行へ「ベンチがアホやから」と悪態をついて現役を退く江本がエースだった。
今は無き大阪球場での第一戦ではその江本が完投し、野村南海は先勝した。
続く第二戦、この試合こそシリーズ最大のポイントだった。
巨人は確かにリーグ9連覇を果たしていたが、メンバーの入れ替えをほとんどしないままで、辛うじて試合経験の多さで凌いでいた感が強かった。
事実、この年はリーグ優勝決定が最終戦までもつれ、首位阪神との直接対決で勝ってシリーズ進出を決めたほどだった。
巨人の高橋一三が先発したこの試合、0-9で敗れた阪神の姿に激高したファンが試合終了と同時にグラウンドへなだれ込み、大騒ぎになったことも記憶に残る、そんなシーズンだった。

だからこそ、南海にチャンスがあると見られていた。
しかも巨人は頼みの長嶋がシリーズ全試合を欠場することが決まっていた。王者の足元は揺らいでいたのは間違いなかったのだ。
一方の南海は覇王阪急をうっちゃっている。まさにノリノリだった。しかも初戦を8回裏に逆転して物にしている、4連勝もあるはずだった。

しかし、両軍決め手を欠いた第二戦、延長11回に試合を決めたのは投手の堀内だった。しかもバットで。この試合は、先制打も巨人の先発倉田が放ったもので、捕手野村のコンピューターが奇しくも相手投手の打撃データを入力し忘れていた、そんな印象のある試合だった。
これが返す返すも惜しかった。
後楽園に移動して迎えた第三戦以降は、巨人のペースが崩れることなく4勝1敗でV9が達成され、シリーズは幕となった。

思い返せば、巨人も苦しい布陣だった。
なんと5試合に登板した投手が堀内、高橋、倉田の三人しかいなかったのだ。
その堀内は、先発した第3戦で2本もホームランを放っている。やはり野村は打撃のいい投手への対策が甘かったと言わざるを得ない。
このシリーズはMVPが堀内だが、選ばれた理由が投球だけではなかったことが南海の敗因にもなっていた。

南海も江本を先発だけでなくリリーフでも登板させたが、巨人より遥かに厳しい駒の少なさが露呈した結果でもあった(この時には日本人メジャー第一号のマッシー村上がロースターにいて、リリーフで投げてもいたのだが・・・)。
野村も敢闘賞に選ばれ気を吐いたが、シリーズ打率.250、本塁打なしでは湿り切った打線をどうすることもできなかった。

野村がノムさんと呼ばれるようになるのは我がヤクルトへ監督としてやってきた1990年代からになる。
それまでの、特に現役引退を選択するまでは成績よりもゴシップで世間を賑わせていた印象が強い。
後におしどり夫婦として名を馳せる沙知代夫人との出会いは1970年で、当時はお互い結婚をしていたという間柄だった。今で言えばダブル不倫だ。
野村の前妻である正子さんが離婚に応じず、1978年まで延々沙知代夫人は愛人関係(しかも野村との間に子供まで生まれていた)にあった。
南海も不振にあえぎ、阪神との江夏と江本を含む複数選手トレードで話題になるなど散々な時期だったが、野村の蛮勇もその一役を買っていたことになる。

野村は江夏をリリーフとして再生させるもののお家騒動に巻き込まれる形で南海を追われ、ロッテ、西武に移籍し引退を決めている。

高卒選手として捕手のレギュラーを張り、NPB二人目の三冠王を達成、ほとんどの通算打撃成績で歴代2位という数字を残している不世出の大選手だった。
その一方で、沙知代夫人との関係や相手打者の打ち気を殺ぐ「ささやき戦術」、狭い大阪球場で本塁打を量産するような結果を追うスタイルなど、現実的で理屈に合った戦法を率先して実践する選手でもあった。
今は投手の必須条件と言われるクイックモーションを思いつき、南海投手陣に改革をもたらせた功績もある(盗塁王福本の足を封じる作戦として思いついたのが実に野村らしいw)。

引退した1980年はおいらもまだ高校1年、プロ野球に正義や絶対を求めていた「青い時代」だった。
その中にあって、野村の考える野球はどうしてもずるい作戦だとしか映らなかったことをここに白状したい。
だが、その視点こそがID野球として1990年代ヤクルト隆盛の原点になり、捕手で首位打者を獲得する古田というNPB随一の捕手を育てることにもなった。

不遇だった阪神監督時代、本気で日本一を狙っていたシダックス監督時代、マーくんを育てあげた楽天黎明期の好々爺としての采配、その時代を思い出す人も多かろう。
だがおいらは、現在のNPBを形作ったノムさんの視点と言葉に感謝を捧げたい。
日本一監督としての栄光と家庭に関する闇、その清濁を合わせ飲むことこそが野球なんだと教えてくれた人だと思っている。

ありがとう、ノムさん。あなたと同じ時代を生きることができ、おいらは幸せでした。

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