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「優秀と呼ばれていた人の選択肢」


基本的に日本では偏差値というもので学力を計る。
「学ぶ力」と書かれてはいるが
試験問題に対策がある時点で少し疑問ではある。

結論から言えば、
偏差値という数値を基にした学力の計測手段は、
予想以上に、たいして役に立つ人物を生み出さなかった。(皆ではない)

2022年の現状を見ればわかるだろう。
日本社会が安定し学べるようになり、
今どのくらいたっただろうか、
1945年が第二次世界大戦の終戦で
そこから復興してのいろいろなのでまあまだ60年くらいだろうか。

過去の人物に傑物が多いのは、
そうやって国全体を飲み込む戦が起きずに
ゼロにならずに繋いできた何百年という歴史の賜物だろう。
見方を変えれば今日の「学ぶ力」はもしかすると
江戸時代より劣っているのかもしれない。

皆困っているし、満たされてもいない。

昔の方が不便ではあるが、

その時どう感じていたかは長生きしている老人に聞けばわかるだろう。

書物や芸術等から感じ取ればわかるだろう。


今は便利になっただけで、
もてあました時間の使い方もよくわからない。
堕落していく方向はアヘン戦争に似ている。

アイスなど食べていても仕方がない。

要するに「的外れ」なのだ。


偏差値の高い人々はいったいどこで何をしたのだろう。
私の知る偏差値の高さで有名なところをでたものは
起業し会社を経営しているらしい。
情報化社会の波に乗りデータを
かき集めては小銭をかき集めている。

戦前の歴史を繋いできた人の価値観から見るならば、
この偏差値が高いというだけの人物を、
現状で満足している人間を、
どう見るのだろうか。

「こいつは何を学んできたのだろう?
おそらく教育されていないのだろうな、
かわいそうに。」

そういう見方もあるのかもしない、
そこで、「学ぶ力」という定義を改めて考え直したい。

要するに、
試験対策だけでやってきた、
教授の下でコネづくりしただけの、
肩書だけでついてくる人間からしか尊敬されない、
現実ではたいして役に立たない蘊蓄だけの、
価値観の更新が戦後から止まっている、
(そのくせ機能ばかり更新させて最先端だと偉そうにしている)
経済社会に呑まれた可哀想な考え方の、
伸びしろのない、

     終 わ っ て る 人 。


をどうにかこうにか活かす方法の提案だ。

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