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18歳田舎娘米国へ旅立つ

2020年。

わたくしマミー55歳。

愛媛県西条市で産まれ育つ中、常に思っていたのが、

「なぜ私は産まれてきたの?誰にも必要とされていないのに。」


その頃なぜそんな質問がいつも心の中にあったのか全く分からなかったが、3人の息子を育て上げた今、分かってきた。

なぜ、私はいつも自分の中にこの質問があったのか。

それは

「愛されている実感がなかったから。」

この一文を見るととてもかわいそうな子供時代だったように聞こえるかもしれないけど、私の育った環境はとても恵まれてた。


父は自営業。日本国民全員がたぶん知っているであろう生活費必需品製造の大手企業の下請けではあるが、まあまあ重要な仕事を一手に任されていて、四代目への継承が決まっている優良法人であるから経済的には困ってなかった。

母は忙しい父の代わりに左半身麻痺の姑の面倒をみながら会社の創業者である舅と夫に良く仕えて家事を完璧にこなしながら、農業もする今で言うスーパー主婦だった。

弟と妹がいて、仲も悪くなかったし、近所付き合いもよかった。

だから、周りから見たら模範的ないい家庭だった。


が、しかし、私には両親から愛されたという実感がない。

特に母から愛された記憶がない。


以前noteに幼少期の出来事が私が心を閉ざした理由であると書いたが、あれは40歳を過ぎてから知ったため、子供時代はとにかく心の中は満たされていない状態でだった。


そんな私の人生に大きな転機が訪れた!

高校一年生の時、母の華道の先生がアメリカの生徒さんをここ西条市に呼び、西条周辺観光をさせ日本の文化に触れさせるという企画があり、ホームステイ先を募集していた。

母はすぐに希望を出し、我が家に初めてのアメリカ人が3日間泊まることになった。


家に来たの母娘二人。

とても背が高くて、(たぶん190㎝はあったと思う)いい香りがした。

色が白くて、白人って本当の色が白いんだと思った。

大きなスーツケースを二つ持っていて、田舎の15歳には世界は広いと思わせるには充分なデータ量だった。

弟は中学二年生。妹は小学生。ということでそのお客様の通訳に選ばれたのはわたし。

お風呂はココ。

トイレはココ。

明日の朝ごはんは何時から。

ヤク〇ト飲みますか?

などなど必要最低限のことを片言以下のレベルの英会話で一生懸命伝えていた。

その時、常に笑顔で優しく私の顔を見ながら理解しようとしてくれる二人の姿勢がとても柔らかくて、うれしかったのを覚えている。

今思い出しても心が温かくなる。

そんな二人が最後の夜に私に話した言葉を今も鮮明に覚えている。

この言葉で私の人生が大きく好転していくことになる。

「Yukari,アメリカの高校に来ない?私たちの家の近くに○○高校があるから、家から通えばいいわ。」

えっ!

アメリカへ行く!?アメリカで生活する?

留学ってこと?

たぶんそんな気持ちが私の心中で聞こえたと思う。

彼女たちの質問に私がなんと答えたかは全く覚えていない。

私は彼女たちの言葉をそのまま母に伝えたら、なぜか私は高校卒業してからアメリカ留学をすることになった。


35年前の四国愛媛県西条市でアメリカ留学をする18歳の女子。

私はワクワクしていた。不安は全くなかった。

だって、念願の嫌いだった家を出て一人暮らしいができる、それもちょっとやそっとでは来られないアメリカで。

ワクワクしかなかった。


1983年3月、地元の県立高校を卒業。同5月にアメリカに向けて単身旅立った。


行った先は前出の母娘さんのところではなく、その母娘の華道の先生である日本人の女性のひろこさんの住むアイオワ州デモイン市というところだった。

ドレイク大学に入学して英語の勉強が始まった。

ESL(English as a second language)という英語が母国語ではない外国人に英語を教える科に入った。

そのクラスには、サウジアラビアの女性、イタリアの男性、韓国の男性、カタールの女性、タイの男性、日本人の男性、インドの男性がいて、とても賑やかだった。

先生はアメリカに人の男性だった。

授業は内容は英語でのディスカッション、英語でのレポートの書き方、アメリカ文化を学ぶという単純なものだったが、私にとってはすべてが新しくキラキラして見えた。


ここでの授業で私は自分が必要な人間であると知ることになる。


ある日の授業

先生「ではこの課題についてみんなに意見を言ってもらおう。Yukriの意見はどう?日本人としてどう思う?」

と質問された。←質問内容は覚えていない。常にこんな内容だったから。

私は自分のわかる範囲で私の思う日本人の考え方を貧しい英語能力で話した。そうすると

先生「Yukriはこんな意見だけど、みんなはどう思う?」

というと、ほかの生徒が手を挙げて自分の意見をなんの躊躇もしないで答える。


私の中に衝撃が走った!

私がこの授業の中心にいる!

先生は私の意見を否定しないで、きちんと受け止めて理解している!

そして、クラスメイトも全員私の意見をバカにせず真面目に聞いて理解している。そして各自の意見もしっかり言っている!

これだ!!!!!

私が求めていたものは!!!!

世界はひろい。私のことを一人の人間として認めてくれる人がいる!


私は生きていていいんだ!!!!!!


そう思った瞬間長年私の中に重く垂れこめていた雲が晴れ、光が差し、やがてハワイの空のように真っ青な気持ちになった。


あなたの人生に転機は何ですか?と聞かれると、私はかならずこのアメリカ留学の1年間だと答える。

この1年間で私は自分の存在を認めることができた。

私は生きていていいんだ!

私は必要とされているんだ!

私はそのままの私で愛してもらえるんだ!

心の叫びが聞こえていた1年間だった。


この1年の体験で得た自信と妄想癖で私はここまで生きてこられている。


この記事を読んでいて、なにか今の自分が本当に自分ではなと思う人がいたら是非ご連絡下さい。

アメリカ留学なんかしなくても私がこれまで歩んできた人生や体験が少しでもお役に立てたらうれしいです。

FBは秦百香里で検索してくださいね。

ご縁があれば必ずつながりますから。





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