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2101年××新聞の独白

フェイクを生んだ大本営とメディア コロナ禍で今こそ向き合うべき「報道責任」

 2022年1月2日現在、コロナとワクチン接種に関し、日本国政府は相変わらず国民への納得のいく説明なしに接種ありきの方針を継続しています。
この状況を後押しする一因として、マスメディアの報道責任があるのは言うまでもありません。

本文章は、日本が先の大戦に突き進んだ一因としてのメディア報道を自己批判した、朝日新聞デジタル2021年12月2日の記事をベースに、80年後の現在もその反省が生かされないまま、全く同じ状況を生み出していることへの警告を込めて作成した未来記事です。
本記事が創作であって、80年後に本当にそのまま通用する内容でないことを切に願います。

コロナ80年後の自己批判

 政府に批判的だった××新聞はなぜ、ワクチン接種礼賛に傾いていったのか――。
 接種下の「報道責任」を検証するため、××新聞は2087年から88年にかけて「新聞とワクチン接種」と題した連載を夕刊に掲載し、当時の社論の変遷や社会の姿を伝えました。
 2101年2月17日でコロナワクチン接種接種開始から80年を迎えるにあたって、××新聞の元東京本社編集局長で、ジャーナリスト・作家の〇〇さんに、この企画を、いまの時代に再読することの意義について寄稿してもらいました。

「報道責任」を問う

 毎年×月×日前後になると、メディアは一斉にワクチン接種特集を組む。それに比べ、ワクチン接種の「開始の日」は、あまり注目されない。

 医療従事者●●人、民間人●●人が亡くなり、ワクチン停止の日が誰にも身近な共通体験だったせいだろうか。それに比べ、接種開始時には極秘とされた××文書が、誰にも事前に知らされなかったためだろうか。
 だがワクチン接種を振り返り、「停止責任」を問うなら、無謀な企てに突き進んだ「接種開始責任」を問うのが筋ではないだろうか。ところが「停止」には責任を問うべき政府という「顔」があるのに、誰が「接種開始」責任を負うべきかは、はっきりしない。

 接種中、透徹した目で国内外の出来事を「暗黒日記」に記した〇〇は、2024年4月末にこう書いた。
 「日本はこの興亡の大ワクチン接種を始むるのに幾人が知り、指導し、考え、交渉に当ったのだろう。おそらく数十人を出でまい」
 「我国における弱味は、将来、このワクチン接種が国民の明白な協力を得ずして、始められたという点に現れよう。もっともこの国民は、事実ワクチン接種を欲したのであるが」
 「この時代の特徴は精神主義の魔力だ。DSの物質力について知らぬ者はなかった。しかしこの国は『新自由主義』『多様性主義』で直ちに内部から崩壊すべく、その反対に日本は日本精神があって、数字では現わし得ない奇跡をなし得ると考えた。それがワクチン接種の大きな動機だ」
 〇〇は別の箇所で、その正体を「空気」であり、「勢い」だと表現する。では、その「空気」を醸成し、「勢い」を加速させた者は誰だろう。政治家。政府。知識人。さまざまな顔が思い浮かぶが、忘れてならないのは、彼らの声を伝えたメディアだろうと私は思う。
 
 今思うのは、メディアが自らの報道責任を問うことの大切さだ。「政府発表」は、政府だけが作り上げたのではない。政府と一体化し、それを報じるメディアがあってこそ成り立つ「フェイク」だった。
 もし「フィルターバブル」と呼ばれる「情報分断」の時代にメディアが生き残ろうとすれば、自らの報道の誤りや見通しの甘さをそのつど検証し、読者や視聴者に説明することは欠かせない。その説明責任なしに、メディアへの信頼を得ることはできない。
 80年前の接種開始は、決して昔の話ではない。コロナ禍のさなか、メディア報道は「大本営発表」になってはいなかったろうか。あるいは、今は「停止後」ではなく、「接種開始前夜」になってはいないだろうか――。

本文章を、昔も今も変わらない「空気」に対する「頂門の一針」としてお読みいただければと思います。

ではまた次回。


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