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【古今名婦伝】栢原の捨女

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『栢原の捨女(古今名婦伝)』

柏原かいばら捨女すてぢよ

丹波国たんばのくに氷上郡ひがみごほり田氏たうじむすめなり。弱年おさなきより和歌わか俳諧はいかいこのみ、秀吟しうぎんおほし。

  初雪はつゆきや 二字にのじふみす 下駄げたあと

これおさなときによみしとぞ。同宗どうそうせしが、はややもめとなり、のち盤桂ばんけい禅師ぜんじさんして開悟かいごす。めづらしき貞烈ていれつなり。

  あはのほや はかずならぬ 女郎花おみなへし

※ 「盤桂ばんけい禅師ぜんじ」は、江戸時代前期の臨済宗の僧(播磨国揖西いっさい網干あぼしの出身)。
※ 「貞烈ていれつ」は、女性が操を堅く守って気丈であるさま。

でん捨女すてじょ(ステ)は、江戸時代前期を生きた女性です。

田捨女 俳人・歌人
寛永十一年(1634年) –
元禄十一年八月十日(1698年9月13日)

寛永十一年(1634年)丹波国柏原の代官・でん 季繁すえしげの娘として生まれました。幼い頃から利発で、六才のときに次の句を詠んだといいます。

❄  雪の朝 二の字ふみ/\ 下駄の跡

雪の日の朝、下駄の足跡(二の字)をふみながら歩く、ステの可愛らしい姿が目に浮かぶようです。

『古今名婦伝』には「初雪や二字にのじふみ出す下駄の跡」とありますが、ステの伝記によれば、これは後人の改作であるとしています。

個人的にも「雪の朝二の字ふみ/\」のほうが素直で愛らしい目線が感じられて、好きだなあと思います。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『絵本名婦伝

もうひとつ、少女時代の有名な句があります。

ステが十才になったある日、親類の酒造家で店の手伝いをしていたときのこと。得意先から菊という女が使いとして一升の酒を買いにやって来ました。たまたまその日が重陽ちょうようの節句(九月九日 菊の節句)だったので、ステは帳簿に次のように書きつけます。

一升や 九月九日 使菊

ステの才能はその成長とともに評判を増し、十七才のときに藩主・織田信勝から「柏原におしやすておく露の玉」と賞賛されたそうです(諸説あり)。

ステは十八才で、父の後妻の連れ子であった季成すえなり(二十七才)と結婚します。翌年には長男が生まれ、五男一女をもうけました。

<捨女 在世中の田家邸宅(昭和初期)>

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『田捨女

<田氏系譜>

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『田捨女

父から代官職を継いだ 夫の 季成すえなり もまた俳句に秀でていて、ステとともに 北村季吟きぎん、北村湖春こしゅん、宮川正由しょうゆう 等から教えを受けています。

ふたりの俳句・和歌は、田艇吉氏(ステの子孫で、明治時代の政治家)が発行した伝記に詳しいのでよかったら見てみてくださいね。
『田捨女』「五、遺稿遺文  (い)発句(ろ)独吟(は)連歌(に)歌文 」「(七)夫」「(八)俳諧と和歌 北村季吟」👀

🌿

ステが四十一才のとき、季成が亡くなります。一番下の子はまだ五才でした。それから五年後、ステは剃髪して京都千本に庵を結び、妙融と名を改めます。黒髪を糸柳にたとえて、次のような歌を詠みました。

秋風のふきくるからに糸柳  
    こゝろぼそくも散る夕かな


さらに、貞享二年(1685年)に京都から播州網干あぼしへと移り、臨済宗妙心寺派の龍門寺りゅうもんじ盤桂ばんけい和尚に入門して、名を貞閑ていかんと改めます。二年後、龍門寺の傍らに庵を結び「不徹庵ふてつあん」と名づけました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『鶯邨畫譜

晩年を不徹庵で過ごしたステは、元禄十一年八月十日(1698年9月13日)にこの世を去ります。享年六十五才でした。

あわの穂や 身は数ならぬ 女郎花おみなえし


参考:国立国会図書館デジタルコレクション『田捨女』『大日本女性人名辞書』『古今辞世集』『婦人の為めに』『少女三十二相:一名・少女の伝記』『大日本人名辞書 下 訂補2版』『日本女学史』『名人忌辰録 下』『少女美談』『俳諧史伝』『女流著作解題
Wikipedia「田捨女」「田艇吉

筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖