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【古今名婦伝】万治高尾

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『万治高尾(古今名婦伝)』

万治まんじ高尾たかを

元吉原もとよしはらなる三浦みうら四郎しらう左衛門さゑもんいへ名妓めいぎ二代の高雄たかをは、下野国しもつけのくに しも 塩原郷しほばらのがう 塩釜しほかまむらさんにして ちゝ長助ちやうすけといふ。

高尾たかを万治まんぢ三年 庚子かのえねの 十二月廿五日江戸えどにてぼつす。かの古郷こけうにあまたの紀念かたみおくしといへども、みなうしなひていまちりばかりのものもなく、ただ 高尾たかを自筆じひつ源氏げんじ伊勢いせつれづれのたぐひのみのこれり。

万治高尾
不明 - 万治三年(1660年)

これは かれ 在世ざいせのときおくるものにて、まこと筆蹟ひつせきにうたがひなし。かれおもかげいま見るごとくおぼゆるものとぞ。以上京伝が奇跡考。

山谷さんやばしみなみ西方寺さいはうじ(道哲)に墓あり。
辞世に
   寒風に もろくもくつる 紅葉かな

※ 「奇跡考」は、山東京伝の著書『近世奇跡考』。
※ 「道哲どうてつ」は、西方寺さいほうじ(浄土宗弘願山 専称院西方寺)の別名。
※ この辞世の句については、二代目の万治高尾ではなく 初代高尾のものとする説もあるそうです。

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万治まんじ高尾たかおは、江戸時代初期を生きた女性で、元吉原の三浦屋四郎左衛門抱えの太夫でした。「高尾」というのは三浦屋の太夫の名跡で、九代続いたとも、十一代続いたとも言われます。なかでも最も有名であったのが万治高尾です。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『花街漫録 2巻 [1]

高尾之図

明治時代に出版された『はちす花』には、九人の高尾について記載されています。実際には榊原高尾の後にふたりの高尾がいたそうですが、どのような女性であったか記録がないそうです。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『はちす花 上

万治まんじ高尾たかおは、仙台せんだい高尾たかおとも呼ばれます(上述の目録では「仙臺高尾」と記載)。

仙台藩主の伊達綱宗だてつなむねに落籍されたにも関わらず、その意に従わなかったため非業の死をとげたという話に由来するのですが、その真偽は定かではありません。

よかったら読んでみてくださいね。👀
仙台高尾(万治高尾)  石井高尾  西條高尾  島田高尾(水谷高尾)  浅野高尾  太染高尾(紺屋高尾) 子持高尾  六本高尾  榊原高尾

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『高尾の話(名伎三十六佳撰)

万治高尾が太夫をつとめた三浦屋の場所を見てみましょう。下の地図(元吉原町之絵図)左中ほどに、京町「三浦屋四郎衛門」が見えます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『花街漫録 2巻 [1]』元吉原町之絵図

元吉原から新吉原に移転した後も、遊郭内の同じ位置(京町の大門口寄り)に三浦屋があったことが分かります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『絵入大画図
三浦屋四郎左衛門 太夫三人 格子十二人

「大夫三人  格子十二人」の名前をひとりひとり拾ってみると …

大夫三人
 大夫 高尾たかを 日 薄雲うすくも 月 若紫わかむらさき 

格子十二人
 にしを かわらさき こにし もろこし
 ていか ときは こむらさき やましな
 うこん みよし しづか みちのく  🍂

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『花街漫録 2巻 [2]』高尾取持之杯
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『花街漫録 2巻 [1]』高尾之真蹟色紙

秋のいろは と山のみねの うすもみぢ
よしやしぐれに なをそめずとも

紅葉が美しい絞りの着物

日本橋にあった吉原が 日本堤(新吉原)に移転したのは、万治高尾が亡くなる三年前、明暦三年(1657年)でした。それから百年後、歴代の高尾太夫とともに全盛を極めた三浦屋も徐々に衰退し、宝暦六年(1756年)に絶えたといいます。

辞世の句
  寒風に もろくも朽つる 紅葉かな


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※ 参考:国立国会図書館デジタルコレクション『高尾考:古今史料』『四方山の話(紺屋高尾)』『遊女の文学(高尾)』『仙台巡杖記(仙台高尾の墓)』『名誉長者鑑:今古実録』『塩原温泉誌』『夏わすれ:一名・塩原温泉紀勝 那須七湯紀勝』『名女伝』『集古随筆:四大奇書』『小哲学』『伊達の大奥』『名家遺詠録

筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖