The Sword Story5
Edition - C
自宅に分厚い郵便物が届いたのは、ヘレナが行方不明になった数週間後のことだ。
細部まで仕上げられ提出の形式もきっちり整った論文が、その中身だった。
一緒に入っていた手紙には、残された剣はその論文の起点になっている短剣で間違いないことと、同じ論文を外国の大学にも送ったことが書いてあり、論文はヘレナとトリニティの共同研究でありながら、筆頭研究者はトリニティの名前にしてあった。
一緒に作り上げた論文だったが、明らかにヘレナ主導だった。
だが一介の大学生が書いた論文であるよりは大学教諭の書いた論文であったほうが確かに学術誌にも載りやすいと考え、トリニティは修正をしなかった。
論文は認められ全国的な研究誌にも載ることになり、皮肉なことに、研究者の1人が行方不明だということも話題になった。
手のひらを返したような態度を取る大学をトリニティは退職し、外国の大学で教鞭をとった。そして生涯、女性研究者の地位を上げる活動に心血を注いだ。
短剣はいつの間にかどこかに消えてしまったらしい。
だが共同研究の論文は肌身離さず持ち歩き、それを愛しそうに読む姿が晩年になっても見られたそうだ。
自分の手から取り上げられた論文を、ヘレナは取り返そうと体を伸ばした。
だが男性の背丈に腕の長さは届かず、不自然な体勢にバランスを崩して踊り場の端で躓いてしまった。
手を引かれ、抱き留められれば落ちなくて済んだはずだった。
だがコーデルは動かず、ヘレナはそのまま石造りの階段を転げ落ちた。
いろんな角度からの階段がゆっくり見えていた。無表情で見下ろす婚約者が目の端に映る。
やがて感覚がなくなり痛いとも思わなくなったので、自分は下まで落ちたら多分死ぬのだろうと予測がついた。
用心に用心をと、いくつか保険をかけておいて良かったと思う。
どうせこの学校の教授たちはヘレナとトリニティの研究など歯牙にもかけないだろう。だが万一にも読まれ、さらに万一にも自分達の成果にされたらたまらない。
トリニティと2人で生み出したものを、絶対に誰にも譲りたくなかった。
最後の床に落ちたのだろう。体の動きが止まった。
どこからかわからないが血が出ているらしく、体から体温がどんどん減ってゆく。
夢だろうか現だろうか。
ヘレナは剣の声を聞いた。
心身を捧げる限りにおいて、其方を守ろう。
それから剣の過去を。元は王だったテオという男の最期を見た。
走馬灯に見たテオが、ヘレナの横に片膝をついている。
アジア系とも南米系ともつかない凛々しい顔が見下ろしていた。
「私はいい。でも死にかけのこの心身でも代償にできるなら、私の一番大事な人を守って」
テオは頷いた。
相分かった。
其方の心身を貰い受け、願いを聞き届ける。
俺が突き落としたんじゃない。勝手に落ちたんだ。
そんな言い訳をしながらコーデルは、不埒な婚約者が階段を転げ落ちて行くのを見守っていた。体の末端が冷たいような、でも芯は熱いような、変に興奮した気持ちだ。
それに、ここで息絶えるのは、ヘレナにとって却って幸運だろう。
今ならまだ皆の美しい思い出にもなれようが、これ以上恥を重ねれば、本人だけならまだしも家名に傷がつきかねない。
ヘレナが大学に入った頃から薄々思っていた。
この先数十年もの間、一緒にやって行くのは厳しいかもしれない。
だが高校時代から婚約していて、しかも上流階級の子女だ。身分が低い自分の方から婚約破棄をすることは難しかった。
そして、内心気づいてもいた。
ヘレナは自分より知識があり、大抵の男性より頭が良いのではないだろうか。
だがそれを認めるには、コーデルは貴族社会の習俗に馴染みすぎていた。
だからヘレナが事故で死ぬことは、全てにおいて都合が良かったのだ。
落ち切ったヘレナを踊り場からしばらく見ていた。
だがピクリとも動かず瞳孔も開いているようだ。どうやらうまいこと死んでくれたらしい。
さて。この論文をどこで処理しようか。
一応一読してから庭で燃やすかと考えながらその場を後にしようとした時、眼下のヘレナが、何か紐状の物で巻かれた塊になっているのが見えた。
ギョッとして目をやると、そこから触手のような物がいくつか伸び、再び塊に収まる。
そして紐がほどけ崩れながら宙に消えた時、ヘレナの姿も流血の跡も、綺麗さっぱりなくなっていた。
この時死体が消えた場所をきちんと確認してさえいれば、あれだけ探していた短剣は見つかっていたのだ。
だがコーデルは、薄気味悪い現象に怯えたのと死体すら消えた幸運に喜んだのとで、足早にその場から立ち去っただけだった。
消えた短剣はいくつか国を渡りながら年月を経て、やがて1人の少女の手に渡る。
その少女は…
けれど、ここからは、また別の物語。
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