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「幸せになるのは私」

「あの鐘を鳴らすのはあなた」みたいになっちゃった。なっちゃったか?野花紅葉です。

元気のなさを愛さないぞと決めたり、全てに出会い直すぞと思った再演を経てから、なんだか新しい気づきが増えたような気がしています。決して価値観が大きく変わったとか全てに前向きになったとかクソほど元気になったとかいうわけではないのですが。

わたしは多分、こんなことを書くのは恥ずかしいのですが、「幸せ」って「してもらう」状態のことだ、と信じていたんだと思います。というのは、自分がすでに持っている=幸せと定義しているものが存在しなかったというか、存在していたとしても満足できない=幸せと定義することが困難だったんですね(2年前も「幸せに目を向ける余裕がないの」と書いていました)。

なんというか、自分がすでに持っている=幸せと定義しているものに関わらず、そんなもん飛び越えて「感じさせられる」くらいの、大きくて鮮烈で、ある意味で強制的なものが「幸せ」だと思っていたし、それくらいじゃないと「幸せ」という名前をつけられなかった

でもこれ、言うまでもなく、めちゃめちゃ受動的でめちゃめちゃ他力本願じゃないですか。まあ、こと恋愛の始まりに関しては「あ〜しのこと幸せにしてくれる男じゃないと無理なんで😅」みたいなスタンスを示すことで身を守れてきた部分もあるのですが、愛し合って、互いが一緒に幸せになっていく・し合っていくという関係にとっては、めちゃくちゃゴミみたいに働くなと思って。相手に強制力を持つことを強制し、自分は幸せを「感じさせてあげる」使命を勝手に背負う。これは、大切な人に幸せにしてほしいとか大切な人を幸せにしたいという欲求とは別の問題だな、と気づいたわけです。今更ながら。

「幸せになるのは私」

愛情の感じ方のバリエーションについて考えるようになってから、これを「愛」とするのもそれを「幸せ」とするのも「私」だったんだなと思うようになりました。マ〜ジで今更ながら。わがままで自分勝手でどこまでも主観的に生きているわたしですが、自分の受動的すぎる側面にうっかり気づきましたので、しっかり見つめていきたいと思います。「幸せ」に「なる」のは「私」!

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